松永久秀の最期と、その後のイメージなど(2) 「三好、松永の徒」というフレーズ
三好・松永一族に対する後世のイメージ
昔から歴史小説等では、織田信長が上洛した際の悪役として「三好・松永の徒」という書き方で三好三人衆や松永久秀が出てきます。司馬遼太郎の有名な歴史小説『国盗り物語』でも使われているので私も知っていた言葉なのですが、信長上洛前後の状況を簡単に言い表すのに便利なフレーズとして使われてきました。三好義継、松永久通と三好三人衆が将軍足利義輝殺害事件を起こしたのが原因で後世では悪者として扱われる訳で、仕方が無いと言えば仕方が無い事なのですが、もとから敵の多い松永久秀も加えられた挙句、さらには既にこの世にいなかった三好長慶まで巻き込まれ、三好・松永でひとまとめにされて室町幕府に対して悪事をはたらいた悪者というイメージが出来てしまう結果になりました。
1988(昭和63)年のNHK大河ドラマ『武田信玄』で上杉謙信が三好・松永の徒という言葉を使っていたような気がして見返してみたところ、謙信のセリフには見当たりませんでしたが他の登場人物のセリフで、
22話今川義元「・・・。母上の生まれ育ちし京の都は荒れ果てて久しく、将軍足利義輝様も、はははは、三好などという、小物に操られておる有様、ははは、いつ異変起こるかもしれませぬ。・・・」
36話織田信長「・・・。まず表向き、この上洛は、足利義昭様警護のためじゃ。今三好らが第十四代将軍に据えている足利義栄などは、直系に非ず。真の将軍は、足利義昭様という事じゃ。・・・」
といった具合に、もっとひどい言われ方をされていました。ちなみに信長様、14代将軍足利義栄公と15代将軍足利義昭公は11代将軍足利義澄公の御孫にあたられる従兄弟同士なので、立場は同列で御座います。
私が昔読んでいた昭和の文芸作品の著者たちが学校で歴史を学んだのは戦前のことだろうということで、旧制学校の教科書に三好・松永の徒という言葉が書かれていないか探してみると、出るわ出るわ。目についた中で一番古いものを挙げてみると、
明治35年 国史教科書 中學校用 下 改訂
「・・・。永禄十一年、紀元二千二百十八年 信長、義昭を奉じて、京都に入りければ、三好、松永の徒、或は逃れ、或は降りぬ。時に、将軍義栄、既に薨ぜし後なりしかば、義昭は、直に、征夷大将軍に任ぜられき。・・・」
というのがありました。さらに古い書物を探してみると、
明治25年 皇民修身鑑 高等科用 巻之7,8(教師用)
「・・・。剰へ管領細川家の陪臣、三好・松永の徒、暴威を逞しうして傍若無人の振舞しければ、・・・」
という記述がありました。ずいぶん長い間、三好・松永の徒と言われ続けてきたようです。
こうした記述の元は何かと考えてみると、戦前の歴史教科書は江戸時代の国学以来の学問の影響が大きく、特に頼山陽の『日本外史』の影響を受けていると言われているので、そちらを探ってみる必要がありそうです。
「三好・松永の徒」という語句を遡ってみると
三好・松永のイメージについて、今谷明博士の名著『戦国三好一族』に「長慶は義興の死によって悲歎やる方なく、心身に異常をきたし、終日茫然たる日をすごすことが多くなった。故有吉佐和子氏のいわゆる"恍惚の人"は長慶を一つのモデルにしたといわれる。」という記述があります。恍惚という言葉は江戸時代後期の学者頼山陽の『日本外史』に出てくるのですが、最近ではさらに話が発展して、頼山陽の日本外史がもとで三好長慶のイメージが悪くなったと言われたりしています。長慶が惚けている間に松永久秀が実権を奪ったなんて頼山陽が書くからだということのようですが、日本外史の記述には、長慶が悪事をはたらいたとかいう内容はあまり目に付きません。かなり大雑把にまとめられて不正確な内容ですが永禄年間の政治情勢がまとめられている部分になります。
頼山陽『日本外史』巻之九より一部抜粋
・・・四年。三月。長慶饗義輝子其子義長新第。松永久秀董其事。五年。三月。三好實休與畠山高政戰于久米田敗死。高政。政國子也。初高政助長慶有功。己而與六角義賢謀滅三好氏連年構兵。及獲實休兵益振。長慶使子義長弟冬康叔父康長政康。與松永久秀等。攻高政取高屋城。時長慶老病。恍惚不知人。委政於久秀久秀忌義長才望。陰計除之。六年。八月。久秀遂毒殺義長于芥川以十河一存子義繼代爲長慶嫡嗣。七年。五月。又讒冬康於長慶。長慶召冬康於飯盛城殺之。七月。長慶死。政康康長。及岩成左通稱三好三黨。久秀與之謀祕喪。又廢義輝立義榮。義榮冀望將軍。數示意於長慶。長慶弗肯。是年冬。義輝修二條武衞第。課畿内。特税攝津戸金貮分。物情囂然。・・・
該当部分を書き下してみると、時に長慶老いて病み、恍惚として人を知らず。となります。その時長慶は老いて病んでおり、意識がはっきりせず人と意思疎通が出来ていなかった。ということになります(ちなみにまだ数え43歳でしたが)。その先は松永久秀に政を委ねていたら久秀が悪事を始めたという内容が続きます。この部分には長慶が倒れていたという記述しかありません。昔よくあった、下克上で主の細川家を牛耳り足利将軍家を思うままに操ったが最後は松永久秀に乗っ取られた残念な人、という三好長慶のイメージは、ひょっとしたら有吉佐和子作品で決定的になってしまった可能性もあるのではないか、という気もしてきます。
話が少しそれたので元に戻すと、三好・松永の徒という言葉は日本外史には見当たらないのですが、さらに遡って頼山陽が若い頃に著した『新策』という書物に書かれていました。
頼山陽『新策』巻之二 六略 下 財用略より一部抜粋
・・・是以至有應仁之亂、則牧長各保其國、競務耕戰、鑄山煮海、擅有其利。而室町氏坐困矣至其季也、細川·三好·松永之徒紛紛而起、更管京畿利權。而最後織田氏興、盡併其權。蓋應仁而降、京城内外、悉被兵燹、宮闕鹽廢、公卿大夫往往散之四方、寄食牧長割居之國。而供御無所仰、列朝卽位之禮或舍而不擧。
ここでは、細川·三好·松永の徒となっています。いつの頃からか、細川はフレーズから消えてしまったようです。これ以前には今のところ見付けられなかったので、三好・松永の徒という言葉による良くないイメージは、いずれにせよ頼山陽が元になったと言ってもいいかと思われます。
では、それ以前はどんな感じだったのでしょうか。江戸時代後期の頼山陽より古い、江戸時代前期の書物には何か記されていたのか、もう少し遡ってみることにしましょう。
越後流軍学の書『北越軍談』に記された「三好・松永」
江戸時代の有名な軍学といえば、甲斐武田家の流れを称する甲州流軍学の『甲陽軍鑑』が有名ですが、ライバルの上杉家では越後流軍学が伝わり、テキストとして『北越軍談』が江戸時代の元禄年間に成立します。
巻第二十二に「異本の説に曰、」という段落があり、「"今度入洛して三好・松永が馳走を伺いみるに、国柄(こくへい)を雅意に任せて、権勢の堆(うずたか)き事御所に倍す。・・・三好・松永が阿党を誅戮せんには、・・・然らば此後三好が党叛心の萌(きざし)あらん折、・・・」という記述があります。
この巻の話を短くして書いてみると、上杉謙信が上洛した時、三好の家来と松永久秀が偉そうだったので謙信が懲らしめてやった、三好長慶の将軍足利義輝様に対する態度が悪くそのうち謀叛を起こしそうなので、知らせを受けたらすぐに駆け付けると将軍様と約束して帰った、という内容になっています。永禄二年の事を永禄四年と間違えて書いてあったりして正確性に欠けますが、三好側から見るとひどい書かれ方になっています。
他に何かないかとさらに遡ってみると、江戸時代初期の寛永年間に成立した軍記の『北越軍記』、別名『北越太平記』があります。
巻之四上永禄二年の部分に「・・・近年三好松永が威勢つよく。誰にても對得(し)する者なかりしに。輝虎如此の所為にて。貴賤上下輝虎を懼(をそるる)こと不斜。三好松永一言を云事不能・・・」「・・・三好松永が奢甚以て無禮なり。・・・三好松永以下追罸可仕旨御約束申上る・・・」という記述があり、北越軍談と似た内容が書かれています。江戸時代になった時には既に、三好・松永は悪い奴らだというイメージになっています。
これらは上杉家の立場で書かれたものなので、徳川初代将軍家康公と関ヶ原の時に争った上杉家としては、将軍様にはひたすら忠義を尽くす上杉家、というアピールをする必要があったのかもしれません。
悪役にされた三好長慶にとってはいい迷惑なのですが、北越軍談には、少し様子の違う話も書かれています。謙信上洛が書かれた巻第二十二の前にある巻第二十一の終わりに、「異本の説に曰、」として、あるエピソードが紹介されています。
永禄三年に謙信が上洛した時(ここでも永禄二年のことを間違えています)、知らせが無かったとして三好長慶が面会を拒んだ。謙信が宿舎の主を呼んで畿内の情勢を問い、「さて、三好の政道はどうか」と言ったところ、亭主が「三好殿は今までに稀な慈悲者なので、都の貴賤はよろこんでおります」と答えた。謙信が「長慶が常々動き回る時の主要な行き先は」と聞き、亭主が鷹狩が定例なのと北野社参りを怠らないので明後日の朝この辺を通ると言ったところ、謙信の命令で諸士が戦準備を始めたので、亭主がびっくりして三好に知らせた。三好父子が驚いて謙信に使いを送り、対面した上で謙信の将軍拝謁を取り持った。という話が紹介されています。
三好長慶が民衆から好意的に見られていたというエピソードが紹介されているところをみると、上杉家を持ち上げるための書物でも、三好長慶本人はいい人だったということを、ある程度認めざるを得なかったということかもしれません。
戦国時代後期の記述
三好・松永をセットにした記述について、江戸時代の書物にある記述を遡ってみると、江戸初期には既に悪役にされていたことが分かります。ついでに戦国時代まで遡ってみたらどうなっているでしょうか。戦国時代末期、豊臣秀吉が死んで間もなくの頃に成立したという『太閤さま軍記のうち』という書物があります。著者は『信長公記』の太田牛一。この中に、豊臣秀次が秀吉によって自害を命じられた事件を記し、道をたがえた行いばかりして身を滅ぼしたのは天道だと結んでいる部分があります。これに続けて「条々、天道おそろしき次第」として、天道により滅びた武将達を紹介しています。三好実休、松永久秀、斎藤道三、明智光秀と続いていくのですが、三好実休から始まり次に松永久秀がくることからすると、この頃には既に三好・松永の組み合わせが悪人として定着していた感じになっています。三好実休と松永久秀についての内容は、太田牛一らしからぬ事実誤認が多すぎるのですが、ともかく三好長慶が悪かったとは書かれていません。この頃はまだ、長慶は悪者にされていないようです。
さらに元亀・天正の頃まで遡ってみると、足利季世記、続応仁後記といった軍記が成立しています。これらでは、長慶が細川晴元の子昭元を元服させた話が出ています。
三好長慶が一族の三好宗三を討った江口の合戦の際、宗三の味方に付いた主君細川晴元と長慶は対立関係になります。長慶が細川本家の家督を争う敵対勢力だった細川氏綱陣営に付いて氏綱を細川本家の当主にしたところ、晴元は将軍足利義晴を担いで京都から逃げ出し、義晴は子の義輝に将軍職を譲って近江の穴太で没します。13代将軍義輝が京都に帰還する際の和睦条件の一つに、晴元の子昭元を氏綱の後継者にする条項がありました。義輝が和睦を破って再び都から逃げた後、昭元が元服の歳になります。長慶は約束通り氏綱の後継者として昭元を元服させました。三好に批判的な書き方をしたりする足利季世記でも、晴元と長慶はそれでもやっぱり主従なんだねー、といった感じの好意的な記述になっています。続応仁後記では世間が感じ入ったエピソードとして紹介されています。
どうやら三好長慶の存命中は長慶の評判は良い方で、三好長慶の没後しばらくは極悪軍団三好・松永といった扱いをされることは無かったのですが、そのうち悪者扱いされるようになり、戦国時代末期には既に悪者の代表三好・松永という図式が出てきます。
代表者としての三好長慶と松永久秀
三好長慶の死から戦国時代末期までの間に何があったかと考えてみれば、永禄の変、言わずと知れた大事件である将軍足利義輝殺害事件が起こります。三好長慶の死がまだ公表されていなかったとはいえ、没後に三好義継、松永久通と三好三人衆が起こした事件で、その時点で義継がやったという事は世間に知られていました。私自身は、将軍への強訴である御所巻きをやり損なって将軍義輝を殺してしまったとする、いわゆる御所巻き説の立場をとるのですが、いずれにしても将軍殺害という大問題を起こす結果になってしまったことは確かです。計画的な殺害だったとする説だと、重臣トップの松永久秀は知らなかったとは言えない立場になりますから、極悪人確定ということになってしまいます。ただ、御所巻き説をとったとしても、そんな難易度の高い行動を久通に任せたことはあまりにも不注意だったという点で非難されても仕方がない、とも言えます。
いずれにしても、三好・松永が、後世の視点からすれば将軍を殺す大悪事をやらかしたというのは事実なのですが、事件直後はあまり大きな騒ぎになっていません。阿波の細川家と三好氏が保護していた、いわゆる堺公方系の足利義維・義栄あたりを将軍にするためだろうと推測されて、世間は納得していたようです。しかし、その後足利義昭の脱出、三好三人衆と松永久秀の対立、足利義栄の14代将軍就任後間もなく義昭を擁する織田信長が上洛、義栄が死去し義昭が15代将軍に就任、三好勢は抵抗するも敗れ去り、さらに信長による義昭追放と室町幕府滅亡に次いで三好本家が滅ぶという具合に事態が進んでいきます。そして松永久秀が織田信長に反旗を翻し信貴山城の落城で自害した後、織豊期を経て江戸時代へと時代が変わっていきました。久秀の死はインパクトが強かったのか、その後久秀には明智光秀の謀反人イメージ以上に極悪人の代表のようなイメージがついていきます。やがて世間で三好・松永に関連する話の細かい区別が分からなくなってくると三好長慶も巻き込まれてしまい、名の知られた三好長慶・松永久秀の主従が三好・松永にからんだ悪事の代表にされていきます。三好長慶と松永久秀が足利義輝を殺害したという誤解も見られるようになります。三好義継がやらかした将軍足利義輝殺害事件という大チョンボがもとで三好長慶が悪人の代表格みたいに言われるようになってしまったのは、残念というよりも気の毒だという気がします。
曽祖父の之長以来、細川京兆家執事として室町幕府を支える役割を果たし続けてきた三好家、少年時代からその当主として苦労を重ね、ようやく幕府内の対立を抑え込んだところで寿命が尽きてしまった三好長慶。松永久秀は長慶を支え続け、次の時代を生きることを拒んで長慶に殉じた感があります。私は作品に、久秀は織田信長に謀叛を起こしたというよりも三好長慶の後を追って殉死したのではないかといった感想を書き入れてみました。
三好・松永と言う場合、少なくとも三好長慶と松永久秀に関しては、詳しい話を知ってもらって、戦国時代の室町期後半で苦労した人として評価し直してあげてもいいのではないかと思っています。
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