
日本人の正体 ー 日本人論
日本人とは何者なのかと聞かれれば、僕はこう答えるだろう。
自覚のない自発的な全体主義者である、と。
全体主義とは、政治的なそれではなく、文化的、精神的な意味においてのそれである。
常に全体の一部として存在し、その中で役割を担うことで自身の存在、価値を担保する。
自身も他者も全体の一部であることが優先され、個人であることは劣後にするべきだと考える人々。
大体そんな意味合いである。
日本では昔から、滅私奉公の言葉に表されるように、個人として生きることは良しとされてこなかった。
もちろんそこには個人の幸福の追求などあり得なかっただろう。
自分が仕える家や村、君主、職場、国等々、全体、公の為に生きて死んで行くことこそ人の道であるとされてきたのである。
その精神は現代でも、社会的通念として、常識や理想、伝統や文化、あるべき人の姿として、社会の空気の中で脈々と受け継がれている。
日本人はそれを生まれてから当たり前に日々吸い続け、内在化しているのである。
そしてその上に覆い被さるように、戦後欧米から押し寄せてきた自由や人権や平等や個性の尊重などが重なっているのだ。
表面的には世界基準の先進的な自由主義者を気取っているが、欧米由来の薄い皮を剥げば、中身はまだまだ全体主義気質である。
だから日本では今でも個性の尊重や多様性の大切さが叫ばれているのと同時に、伝統やら文化やら国家やら社会やら皆んなやらという言葉で、個人の権利、幸福、自由を制限することが公然と行われているのである。
この日本のおける精神的な全体主義と欧米由来の個人主義は当然矛盾しており、社会のあらゆる場所で対立を引き起こしており、政治の場ではその顕著な例を日々見ることが出来る。
夫婦別姓議論や同性婚の是非などは、制度のあり方以前に、個人の名前や個人同士の婚姻というあくまで個人的な事柄について、何故全員が同じでなけらばならないのかという、そもそもの全体主義気質が指摘されなけらばならないが、自身が自覚のない全体主義者であることに気付けないために、議論は本質に達することがないのである。
日本人がなぜ無自覚な自発的全体主義者なのか。
それは何に由来するのか。
僕の考えでは、日本の国土が島国であることが日本人の精神面に及ぼしてきた影響が大きいのではないかと思う。
大海に囲まれた閉じられた土地の中で、人々がどのように暮らすことが最適解となるのか、そしてその最適解が作法や文化、価値観、伝統となり、そこで暮らす人々の人間性となってゆく、という話である。
大陸のように世界中に繋がっていて、次から次に新しい人々や技術や文物が流入して来ることがない島国において、人々はどのようなあり方で生きて行くのが一番コストパフォーマンスが良く、快適に暮らせるのかという事である。
大陸的にどこまでも繋がった世界では、新しい技術やアイデアを持った人々が常に流入してくるので、それを常に注視し、評価し、定義し、対抗する必要がある。
そして何より、自らもそれらの新しいものを取り入れて、より新たな優れたものを作らなければ自分達を守れなくなる。
世界中にまだない、より新しい武器や道具。それを可能にする技術やノウハウ。又権力や人々を統治するシステムや文化等。
それらを作り出すためには、自分の頭を使い、創造し続けることが必須となる。
つまり大陸においては、思考停止していては生き残れないし、他者より勝っていれば常に大きな利益が得られることになる。
しかし島国では自国の周りを大海が囲んでいる。
そうそう自国を脅かす新しい人々が新しい文物を持ち流入することがない。
つまり閉じられた輪の中では、新しい勢力との競争がほとんどなく、新しいことを考え出す必要がそもそもないのである。
そこでは新しいことを行い失敗するよりも、今まで上手くいっていたものを大事に継承し磨き上げた方が、効率よく世の中を維持し、生きていけるのである。
後は、大海に囲まれ、逃げる場所のない限られた土地の中に住んでいるのだから、お互い我がままを言わずに、周りに合わせて、与えられた役割をこなし、事を荒立てずに仲良くやっていけば良い、という話である。
つまりはこの地政学的条件だけで、精神的な全体主義者の出来上がりを説明することが可能である。
これが本当に日本人の精神的あり方の基礎を作った原因なのかは、もちろん確かめようがない。
しかし言えることは、地政学的に今の日本は大海で諸外国と切り離されてもいなければ、新たな人々や文物が流入しない状況にはないということである。
現代の世界では政治的にも経済的にも文化的にも、世界中からあらゆる文物が日本に常に流入しており、つまり日本もその状況に否応なく対応せざるを得ない状況となっている。
その状況下おいて、過去に流入した一番巨大なものが、敗戦と共に欧米から流れ込んで来た自由主義であり、個人主義であり、民主主義なのである。
この状況下において、日本人が自らが自覚のない精神的な全体主義者であり、古来の在り方と現代の社会が矛盾した二層構造を成していることを自覚し、自らの力でこの二層を調和させた独自の思想を持つに至ることがあれば、矛盾は解消されていくだろうと思うのだが、原点から考えることが苦手な日本人には難しく、結果戦後八十年が過ぎても矛盾は混ざり合うことがないのである。
自由な個人であることと、全体の一部であることは、本質的に水と油のようにお互いを否定する両極であり、これらが自然に溶け合うことはないだろうと思われる。
これは日本と日本人の在り方の本質を問う問題であり、答えなきままにあいまいに濁すことが出来ない問題であるが、日本人はこれを長きに渡って放置してきたのである。
本来なら戦後八十年の間に確立されているべきが、今もって答えを持たず漂い続けているのである。
今後も戦前回帰か、欧米基準の国家か、どちらにしろ自分で考え出した新たな国家像ではない二極のどちらかに、その時々吸い寄せられて行くのだろう。
まずはこの矛盾した現況に対する自覚が必要だが、それが周りを疑わないことを旨とする歴史的な全体主義者には難しいのである。
日本をどういう国にするのか。
自分達がどんな国民でありたいのか。
日本人自らが原点から考え答えを出さなければならない。
全てはそこから始まる。
日本人皆んなが自分で考え始めた時、日本2.0が始まるだろう。
そして新たな日本が誕生する事となるだろう。
その時が来るのかどうかわからないが、こんな事を発信しながら、
その日をひたすら待つしかない。