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『ドラマのような人生を』

沢山のドラマを観てきた。
周りには無趣味を公言してきたが、もうこれは趣味と言ってもよい範疇だと内心思っている。
特に週末にはビール片手に、実に多くのドラマを楽しんできた。
もともと小説や映画も好きなので、物語自体が好きなのだと思う。

しかし動画配信の多彩さもそうだが、レンタルショップや大型書店に行くと不思議な感覚に襲われることがある。
それは、何故世界には、こんなに沢山の物語が必要なのだろう、という感覚である。

書店に足を踏み入れる。
各出版社から出版された今月の新刊小説があちこちに山積みにされ、
きれいにディスプレーされたポップが躍っている。
既にハードカバーの書棚から文庫本の棚までびっしりと世界中の物語が所狭しと並べられているにも関わらず、また今月も新しい物語が生み出され、
これを読め、これは傑作だと喧伝されている。
そんな本屋の棚の間をさまよっているうちに、
「人間が生まれてから死ぬまでに消費する物語の数は一体どれ程のものだろう?」
「なぜ人はこんなにまで多くの物語を求めているのだろう?」

そんな疑問が自然に湧き上がってくるのである。
 

今まで沢山のドラマを観てきて、自分なりに自分が好きなドラマや映画の物語を分析すると意外なことに気づく。
それは期せずして、同じ物語を見ている、ということである。
具体的に同じ作品を観ているというのではない。
作品の本質として、構造として、同じ物語を観ている、という意味である。
例えばスーパーマンとスパイダーマンとバットマンは同じ物語である。
ある人物が何等かの影響で人間を超越したパワーを持ち、悪と対峙し、勝ったり負けたりして、人間的に成長するという物語だ。
違うのは、その設定と人物くらいのものだろう。
だからスーパーマンもスパイダーマンもバットマンも物語として、本質的に、構造的に同じだと言えると思うのである。
この意味合いで、僕の場合は、平凡に暮らしていた人が、ある日突然不思議な世界に閉じ込められてしまい、その中で今までの秩序や価値観が崩壊し、人々にそれぞれ新たな役割が与えられ、その中でどう生きるかを問われる物語が大好物である。
アメリカドラマでいうと『LOST』や『アンダー・ザ・ドーム』、『ウェイワード・パインズ』などがこのタイプの物語である。
世界全体が急激に変容し、その中に閉じ込められるタイプの物語では『ウォーキング・デッド』や『ザ・レイン』などもこのモデルに当てはまる。
こう考えるとそもそも新しい物語というものは、そんなに生み出されておらず、本質的、構造的に見ると同じ物語が、設定やシュチュエーション、キャストを変えて繰り返し作られている、という見方が出来るのである。
そもそも日本では、寅さんや水戸黄門の様に、毎回ほぼ同じ物語で、旅する場所とシュチュエーションと登場人物だけが違うわかりやすいマンネリズムが新作として受け入れられてきた土壌もある。
誰も毎回同じ話じゃないかと愛想をつかさずに、毎度毎度の高視聴率、大ヒットとなっているのである。
つまり僕達は、自分の好きな物語を、違うキャストとシュチュエーションで、何回でも繰り返し観たいのである。
100回見ても、101回目も観たいのだ。
そう考えると、毎月沢山の新刊小説や新作ドラマが作られている訳がわかったような気にもなるのだ。

 
では、もう少し踏み込もう。
ドラマではなく、実生活、例えば実際の恋愛などはどうだろうか。
皆、自分達の恋は特別だと思っているけれど、それは本当だろうか。
乱暴なのを承知の上で言えば、ドラマと同じで、結局の所、やっていること、事の本質は皆同じではないだろうか。
誰かと誰かが出会い、好意を抱き、告白し、デートし、食事し、性交し、喧嘩し、仲直りし、別れていく、という、行っている行為自体は皆同じではないだろうか。
違うのは「人」と「場所」と「シュチュエーション」だけ。
ドラマのように、結局は誰もが同じ事をしているだけ、と言えないだろうか。

更に、人生そのものはどうだろうか。
同時代において、人が生まれ、成長し、生き、老い、死んでゆく中で出会う経験は、本質的に見てそんなに変わらないようにも思える。
相手や場所や時間や具体的行為はそれぞれ異なるが、人の「魂」が経験することは、結構同じようなものではないだろうかと思えるのだ。
しかしだからこそ、僕達はお互いに分かり合えるし、他者の物語に共感することが出来るのだろう。
全く同じ経験でなくても、本質的に同じ経験をしているからこそ、表面上は全く違う体験をした者同士が理解し合えるのだ。
営業マンが大事なプレゼンテーションに臨む気持ちと、野球選手がバッターボックスに入る瞬間とは、具体的事象としては全く異なるが、事の本質としては同じだと言えないだろうか。
お互いの言葉に共鳴し、同じ映画で泣き、同じドラマで笑えるのは、
皆がそれぞれの人生で本質的には同じ経験をしているからではないだろうか。
だから僕らは、どんなに荒唐無稽なシュチュエーションのドラマの中にも、自分や自分の人生をそこに見ることになるのだろうと思う。
 
もちろん、誤解無きように言っておけば、同時に全ての人の恋愛と全ての人の人生が、具体的にそれぞれ全く違うということも当然の事実である。
それはこの宇宙において全く同じことは事象として決して起こり得ないだろう事と、仮に全く同じことが起こったとしても、人が一人一人異なる以上、その事象の受け入れ方は相対的なものになり、同じこともそれぞれ異なる解釈がされる訳で、同じ経験、同じ恋愛、同じ人生などは存在しえないだろう。
そしてそこにこそ、今日も新しいドラマが生まれ続ける理由があるのだろう。
 
これらの共通性と相違性が常に重なり合っているのが、この世界の本質的な在り方であり、だから人の恋愛も人生も、皆同じで、同時に皆違う。
何(What)であるかは同じだが、どのようであるか(How)は一つ一つ全てが異なっている。
この在り方から、現実世界においても、日々様々なドラマが生まれてくるのである。
同じだからこそ時に分かり合い、時に争い、違うからこそ時に惹かれ合い、時に憎み合う。
共通性と相違性がこれから先も、この世界に無数のドラマを生み出していくことだろう。

大いに楽しむとしよう。

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