食歩記【人は舌のみで味わうにあらず】ー 『オムライス』春の日の思い出包み
|『オムライス』春の日の思い出包み
ー上野・黒船亭
春が来たら、ここにオムライスを食べに来ようと決めていた。
あれは確か、一年位前のことだったと思う。
この店にハヤシライスを食べに来た時のことだ。
僕の隣の席に、男女二人のカップルが座っていた。
歳の頃、二十代後半ぐらいだろう。
とても楽しそうに会話しているのが耳に入ってきた。
二人共、とても落ち着いていて、品があり、ユーモアがあり、失敬とは思いながら、ついつい盗み聞きをしてしまった。
お互いの子供の頃の思い出や、高校時代のクセが強い先生の話、
好きなバンドや最近登った山の話、その言葉のキャッチボールがとても素敵で、ついつい聞き惚れてしまったのだ。
お待たせ致しました、と店員さんが二人のテーブルに料理を運んで来た。
わー、と二人が声を上げた。
二皿のオムライスだった。
それはまるでテーブルの上に大きな二輪の黄色い花が咲いたようだった。
いただきます、と二人はスプーンを取り、口に運ぶ。
美味しい、すごくいいオムライスだね、と微笑み合う。
その光景のなんと美しかったこと。
その光景が、僕の脳裏に焼き付いてしまった。
去年の春のことである。
※ ※ ※
明治創業の上野黒船亭は洋食の名店である。
ここで食べれば、まず何を食べても間違いがない。
だからこそ、予約を入れずにふらっと立ち寄ろうものなら一時間待ちはざらである。
先週は、うかつにもその轍を踏み、七十分待ちの声に泣く泣く引き下がったのだ。
しかし今日は、開店二十分前に到着している。
とは言っても、まだ安心はできない。
ビルの四階にあるこの店は、エレベーターで店の前に降りるまで、待ち客数を知ることはできないのだ。
だからエレベーター内でいつもドキドキすることになる。
エレベーターの扉が開く。
誰もいない。
もしかして休みかと店内を見回すと、店員さんがやって来た。
ご予約ですか、と尋ねるので、違う、と答える。
こちらでお待ち下さい、と待ち客用の椅子に案内される。
やっている、しかも先頭。素直にうれしい。
すぐその後、エレベーターから三名の女性が降りてくる。
そして二名客。
また後に二名客。
あっという間に廊下がいっぱいになり、行列が階段下へと伸びていった。
危ない所だった。
お待たせしました。僕の席の用意が出来て案内される。
店内は名前の通り、黒を基調とした落ち着いた雰囲気である。
窓辺で赤い花がいっぱいに揺れている。
テーブルに着くと、もしご注文がおきまりでしたらお伺いします、
と店員さんが尋ねる。
オムライスを下さい、と即答した。
※ ※ ※
去年はハヤシライスを食べ終えた後、上野公園を散歩したのだった。
桜の花がちょうどほころび始めた頃で、それを見ようと思ったのだ。
桜の木々の前で観光客がスマホをかざす中に、先程の二人を見つけた。
うれしそうに咲き始めた桜を二人で見上げている。
僕は思った。
きっとこの二人は今日のことを一生忘れないだろう。
二人で食べたオムライスの事、一緒に見上げた桜の事。
春が来たな、と思った。
それから僕は、来年春が来たらここにオムライスを食べに来ようと決めていたのだ。
※ ※ ※
店員さんが僕のオムライスを運んでやって来た。目の前に置かれたそれは、思ったより大きくて厚みがあり、堂々としている。白いお皿に、菜の花色の卵焼きと真っ赤なケチャップソース、そしてグリーンのパセリが一房添えてある。それは相変わらず、美しい花のようなオムライスである。
バターとチキンライスの香ばしい香りが鼻腔に流れ込んでくる。
銀のスプーンを取って、まずは卵の部分だけを食べる。
ふんわりとした食感とバターの上品な香りが口の中に広がる。
卵も良いものを使っているのだろう。実にくちどけがいい。
次に、中から顔を出したチキンライスを口に運ぶ。
香ばしい。
よく見ると少し焦げ目がある。
チキンのブイヨンでしっかり炊かれているのだろう、噛めば噛むほど旨味が滲み出してくる。
とても手の込んだ丁寧な仕事の積み重ねがなければ、出来ない仕上がりである。
丸く添えられた赤いケチャップをすくって、上にかけて食べる。
ケチャップの酸味とチキンライスの旨味を卵がふんわりとやさしく包みこんでいる。
この三位一体。
まるで口の中が、柔らかな春の空気で満たされたかのようである。
口福。
これより美味いオムライスは、ちょっと想像ができないのではないか。
すべてが緻密に計算されたアート作品のようである。
また一口、また一口とスプーンを運ぶ。
何が他と違うのだろう。
本当に、すごくいいオムライス、なのだ。
こんなに単純な料理なのに、他では真似できない程美味しく出来ている。
お会計を済ませて外に出ると、きれいな青空である。
せっかくだ、と上野公園を目指して歩く。
あの二人は今頃どうしているだろう。
知る由もないが、僕はこれからも春が来る度に、あのオムライスが食べたくなると思う。
とても美味しかった。
黒船亭の『オムライス』春の日の思い出包み、頂きました。
ごちそう様でした。