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食歩記【人は舌のみで味わうにあらず】ー 店の文化溢れる『ビーフシチュー』

店の文化溢れる『ビーフシチュー』

― 銀座・銀之塔


一度食べたら、忘れられない。
 
その噂はあちこちで耳にしていた。
 
「昔、恋人と一緒に食べたあの味が忘れられない。」
「子供の頃、特別な事があると父親に連れて行ってもらった思い出の店なんだ。」

人々はその時の記憶を、まるで宝物のように嬉しそうに語るのだ。
 
それは何故なのか。何がそう言わせるのか。
僕にはとても興味があった。
 
そして同時に、行く前からこの店は美味いに違いない、という確信もあった。
それは美味くなければ存在しようのない店なのだ。

まず、この店のメニューは二品しかない。
ビーフシチューとグラタンのみ。
味に絶対の自信がなければ、そして実際にずば抜けて美味くなければ、決してできないメニューの絞り方である。
更に、それを昭和三十年以来、六十年以上続けている。
加えて、立地が銀座である。
名だたる名店がひしめくこの地では、中途半端なものは直ぐに退場を余儀なくされるはずである。
たった二品のメニューのみで、六十年以上の長きに渡って、銀座で店を続けている。
これで美味くない訳がないのだ。
 
気温三十五度を超えた八月の終わり、十一時半頃、銀座・銀之塔に着いた。
場所は本当に歌舞伎座の直ぐ真裏である。
歌舞伎役者さん達は出前を頼むというが、これなら運ぶのも苦にはならない、と納得した。

そしてその店構えは、というと完全に蔵である。
白壁に突き出した黒塗りの観音開きの窓扉に
「シチュー グラタン 銀之塔」と書かれてある。
隠れ家的存在と呼ぶのに、これ以上相応しい佇まいはないだろう。
焼けるような日差しの下、これならさすがに並ばずに入れるに違いない、と今日の日を選んだのだが、二名店外に先客が待っていた。
店の戸を開けて予約を入れている、と先客が告げると中へ通されていった。
その後待つこと数分。店内の一階に案内された。
一階はテーブル席が二つと小上がりの座敷席が四つ、あとは厨房である。
テーブル席に通される。
冷たいお茶とメニューが出された。


メニューは、やはりビーフシチューとグラタンだけである。
それを両方頂くか、それともどちらかのセットにするか。
シチューは具を肉のみ、野菜のみ、ミックスから選ぶ。
お店のお姉さんにシチューはどれがお勧めか尋ねると、ミックスなら野菜とお肉の両方が味わえる、との事なのでミックスシチューのセットを注文する。
 
厨房脇で店員のお姉さん達がおしゃべりに興じている。
決して気取った雰囲気の店ではないのである。
子供の運動会で何かを忘れてそのピンチをどうやって切り抜けたか、という話を聞きながら待つこと十分程。
厨房からビーフシチューの降臨である。
シチューが煮込みうどんのような土鍋に入れられてやって来た。
中でぐつぐつと沸き立つシチューがもうもうと湯気を上げ、まるで機関車が来たかの様である。
その後ご飯、そして三品ほどの小鉢。箸とレンゲも添えられた。


まずは、そのビーフシチューのいで立ちに圧倒される。
土鍋でビーフシチューが出されるというのは知っていたのだが、それを目の間にすると暴挙ともいえる程のインパクトがある。
そのぶくぶくと泡立ち、もうもうと湯気を上げる様は、本日三五度の気温からして、常軌を逸しているようにさえ思えるのである。
その脇に茶碗に盛り付けられたごはんと小鉢の漬物が鎮座する。
それはまるで家庭の晩ごはんである。
銀座でビーフシチュ―、と言えば小脇に洒落たパンとサラダが付いて然るべきだが、ごはんと漬物を従えての登場なのである。
この見た目のインパクト。
箸とレンゲが添えられているのを見ると、これごはんにかけて食べてね、と言っている ようである。
うちか、と思わず突っ込みたくなる。
 

ぐつぐつ言っているシチューにレンゲを沈める。
深い茶色のシチューに何度もふうふうしながら、口に運ぶ。
うま味、苦味、牛肉のこく、野菜の甘味が熱々の液体となって舌の上を通り過ぎてゆく。
深いな、と思う。当たり前だが、家庭で出せる味ではない。
今度は肉をレンゲに乗せてふうふうしながら口中に運ぶ。
肉がほろほろと口の中でほどけ、シチューの余韻が口いっぱいに広がる。
ジャガイモを食べる。少し硬めに茹でてある。
シチューの濃厚さと、少し硬めのジャガイモがいいバランスである。
店内をぐるりと見回し、こちらを見ている人がいないことを確認し、本当に良いのかわからないが、レンゲでシチューをごはんにかける。
いいのだろう、いいに決まっている。
ごはんとレンゲが付いてきている以上、こうするべきだ、そう自分に言い聞かせる。
それでもちょっとお行儀が悪い感は否めないが、シチューをごはんに少しだけかけて、レンゲでそれをさっと口に運んだ。
すごく美味い。
気のせいか、ごはんはそれを待ち望んでいたかのように、少し固めでビーフシチューをよく吸ってくれているように感じる。
とても美味い。こうなるともう止まらない。
今度はお肉とシチューをたっぷりとかける。
ごはんごとレンゲでパクつく。美味い。ごはんとめちゃくちゃ合う。
これはやっぱり、ごはんと一緒に食べるために作られたビーフシチューなのである。
ごはんにかけて食べるのが美味すぎて、ごはんのお替りが欲しくなったが、さすがにそれは止めておいた。
気が付けば、瞬く間に完食である。

  ※    ※   ※
 
食べた人が忘れられない、と言う理由がわかった。
全てが独特で、お店自体が文化を持っているのである。

蔵のような店構え。
二品しかないメニュー。
土鍋で出てくるビーフシチュー。
それに添えられたごはんと漬物。
それらを一緒にほおばった時の別格の美味さ。

これは決して他で体験できるものではない。
この店には、食べたその日を特別な思い出にしてしまう、そんな力が確かにあるのだ。
 
僕にとっても忘れられない店になった。
とても美味かった。
 
銀之塔の、店の文化溢れる『ビーフシチュー』、頂きました。
 
 ごちそう様でした。

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