感じる。思う。考える。
「感じる」事と「思う」事、そして「考える」事とはどう違うのだろう。
誰かに、何にも考えてないね、と言われると大抵の場合、いや考えているよ、と必ず答えが返って来るが、その内容を聞くと、それは考えてないよね、と思うことがある。
僕が思う「感じる」「思う」「考える」の最も大きな違いは、「感じる」と「思う」はリアクションで、「考える」はアクションだということだ。
何かがあり、それに対しての反応として何かを感じる又は思うのであれば、それはリアクションということになる。
例えば夏のある日、家から外に出る。
太陽が照りつけている。
「暑い」と感じる。
これが感じる、ということ。
単純なセンサー的な反応だ。
バッタも猫も日々いろいろ感じながら生きていることだろう。
では「思う」。
これも準じているが、もっと複雑で感情的。
先生から100ページもの宿題がだされて面倒だなと思ったとか、
誰かと出会った時、この人好きだなと思ったとか、
何かがあってその時心に湧き上がってくる感情的なリアクションとその連鎖。
それが「思う」だろう。
これはバッタはなさそうだが、猫はありそうだ。
ただ「感じる」も「思う」も、何かあった時の体や心の中から湧き上がってくる自然なリアクションだということにおいて似ている。
だから「感じる」「思う」には努力はいらない。
生きていれば、その時その時に自然現象として自分の中に生じるものだ。
それに対して「考える」は、唯一自分発のアクションではないかと思う。
「考える」という行為を言葉で説明すると、自分で故意にその対象に意識を集中して、頭の中で何がしかの知的活動を行い、何某かを生成する行為、といったところだろうか。
頭の中で情報ピースを厳密に選びながら、
それらをつなぎ合わせて何某かの像を作るとか、
数学の計算ように要素に変化を加えて何某かの結論を導き出すとか、
関係ないもの同士を繋げたり、切り離すとか、
拡大する、縮小する、反転して見てみるとか、
「考える」の作業内容は多岐にわたるが、特徴的なのは、リアクションではなくて、自発的に行う知的なアクションだということだろう。
こうなるとバッタも猫も出番がないだろう。
だから明らかに感じたり、思ったりしているだけなのに「考えてるよ」という人を見ると、それは違うんじゃない、と言いたくなる。
「考える」のは能動的アクションで、頭の中で意識的に行う知的な生産行為、知的創造であるために、やると大変疲弊する。
時間も掛かるし、エネルギーも消費する。
慣れない人がやるとストレスフルで、ものの十分で本当に頭がくらくらする程、とても疲れる行為のはずだ。
誰にでも出来るが、実は誰にとっても、とても難しくて、面倒な行為なのである。
しかし、気づかないうちに刷り込まれた感覚の反応を自分の考えだと勘違いして生きていかないために、自分の頭で考えることは必ず必要だと思う。
苦労して自分で考えることで得られた結論は、その人をよりその人らしく、そして自由にする。