サバイバーは人の支援するべきじゃない?~自分癒しと支援の両立
サバイバーが人の支援をするとき、気をつけたほうがいいと思うことがある。
それは、自分癒しのための内容と、目の前の支援のそれが重なるときだ。
側から見ると、見分けがつきにくい。
目の前の人のためを思ってやっていることが、実は自分がやってほしいことだった。現場で下した判断は自分が安心するためのものだった。
...支援の世界ではあるあるだったりする。
そして、“支援は人による”とよく現場で言われることの根っこにあるものだと思う。
知らないうちに脇道に逸れた支援にならないようにスーパービジョンとか事例検討とか、自分以外の人の目からみて何が起こっているかをチェックするような機会や仕組みはある。でも、現場でいわゆる困難ケースと言われるものになればなるほど、誰かが関わるころにはすでにこじれにこじれている。その後なかなか事態はすぐ分かりやすく変わっていくものでもないし、これという正解もない。結果、経験がある程度あれば、大枠から逸れない形で関わることはそこそこ出来る。
サバイバー支援者にとって大変なケースとは、自分の中で解決されていない自分自身の課題が、そのケースを通じて刺激されるとき。刺激から感じた違和感を受け入れると、きっとどこかで一旦行き詰まると思う。この違和感を受け入れるか、無視するか。最終的には受け入れようとすると、私が今回陥った‘不安MAX’のようになったりする。
そんなとき、自分がサバイバーというわけではなくてよく動ける支援者は、“だからサバイバーは支援者になるべきではない”という。“自分のことだけで大変なんだから支援者なんてやるもんじゃない”“自分の課題と一緒くたにするでしょう”と。
私はこのセリフを幾度となく色んな人から聞いた。
皆、私がサバイバーとは知らないので、目の前で言ってくれる(いや、気づいていて、私が傷つかないようにそれとなく言ってくれているのかもしれない(苦笑))。
すでにあなた自身が大変な思いをしてきたのだから、他の人の支援をする前にどうぞ自分を癒して大切にしてね、と優しさと親切心から言っていることはよくわかっている。
それでも、そう言われるたびに、何とも言えない力がいつも湧いてしまうのだ。そして、そんなことはない!自分癒しと支援は両立できる!
心の中では常にそう叫んでいた。
そして、心の叫びを実行するために勇気が必要だった。
確かにサバイバーが支援者で有り続けることはかなりキツい。
覚悟があってもキツい。いつ自分自身が向き合わなくてはならない課題が、ケースを通じて目の前に出現するか、わからないのだから。
明らかに、サバイバーではない人にはないハードルをいくつも越えなくてはならない。
でも、自分が背負わされてきたこと、生きづらさ、を考えたとき、もう二度と見たくない聞きたくない!ではなく、自分みたいな思いを他の人にしてほしくない。その気持ちのほうが強いのだ。だから、支援者になりたい。
これほどの動機があるだろうか。
「なるべきじゃない」という声。
こうして、一見思いやりのありそうな枠をやんわりと与えられること。
すでにいろんなものを背負って制限された枠の中で息苦しさを感じながら育ってきた私にとってはこれが一番嫌なことだった。
ちょっと意地になっているところもあるかもしれない。
でも、当事者にしかわからないことが必ずある。癒しながら関わることで出来ることが必ずある。そんな根拠のない確信もあった。
私は、当事者と名乗ることなく、支援をする立ち位置を選んでいる(中にはさほど自覚がない場合も含め、そういう人は実はかなり多いだろうと思っている)。当事者のパワーはすごいし、最後は当事者でしか状況を変えていけない。そう思えることがたくさんある。
だからこそ、日頃現場では名乗ることがなくとも、当事者かつ支援者である自分としてどこかで思いをアウトプットしたかった。
今年は苦手なアウトプットを始める、と決めたとき、さほど明確な理由はなかったけど、いまそのひとつが自然と湧いてきた。
アウトプットって面白い。