自分を愛する…前にまず関心を持つ
1 選べない育ちの環境
自分を愛そう
私の育った環境ではそんな光景が浮かぶことはなかった。
親がそんな言葉を口にするのを耳にしたこともなかった。
睡眠をしっかり取ったり身ギレイにして健康的なご飯を食べる。
基本的な生活習慣はしっかりが過ぎるぐらい身につく環境にはいた。
……が、見えないこと、心のこととなると、途端にぞんざいな扱いだったと思う。
そんなバランスが良いとは言えない環境で育っても、周りの親戚、知人友人からたくさんのよい刺激や影響を受けられて、今支援者として仕事を続けられている私がいる。
環境って本当に大切だ。
こんな大切なことなのに、誰もが一番大切な幼少期の環境を選ぶことは出来ない(選んで生まれてきた説はここでは置いておく)。多くの人たちが幼少期から見えないナニカを背負って今を生きている。
2 ずっと感じていた違和感
自分を愛そう
このフレーズは何度耳にしても、自分の腹に落ちて自分と一体になることがとても難しかった。それが当然とされる世界からかけ離れたところにいた人にとっては、それだけ大切な分、とてつもなく重いもののように感じるのだ。大事なこと過ぎて警戒心が先だって緊張してしまう。
重要ということを頭で理解すればするほど、どうやっても埋めようのないスキマみたいなものが見えてきて、私にとっては、いつも違和感があった。
違和感があるということは、自分が世間からズレて間違っているんだ。
そう自動的に決めつけて、世の中の正解を押し付けながら、さらに自分を追いやった。
これってこの前記事にした、まさに、違和感さんが現れて、バーチャル先生に会いに行ったパターンだ笑
自分を愛そう、というフレーズは、いつのまにか私の中で、義務感を伴うものになってしまっていた。
3 〝自分を愛する〟にこだわらない
言葉は薬にもなるけど、時に武器にもなるものだ。
私は、自分を愛そうというフレーズから感じていた違和感を勘違いしてとらえてしまっていたことに気づいた。
そもそも自分が抱く違和感とは、自分をよく理解するための大切なサイン。
それなのに、世間という基準にふるいをかけて、私は自分をジャッジするために使ってしまっていた。違和感の先には自分が楽になるためのヒントがたくさんあるというのに。
愛するにこだわらなくていいんじゃない?
自分を愛そうというフレーズを耳にして、楽な気持ちにならないなら、むしろ重さを感じるならそこにこだわらなくていい。
ではどんな言葉ならいい?
自分に関心を持とう。自分時間を大切に。自分オタクになろう。
こんな感じの言葉を使う方が心地いい。
少なくとも今の自分には合っている。決して重くもないし、軽すぎない。
自分という人間とうまく付き合うためのコツという感じがする。
そもそも〝愛〟は、ちょうどいいを越えたとき、時に執着や憎しみに変わる。ちょうどいい距離感がいつも試される、とってもデリケートなもの。そう思う。
距離感を決めるのはいつだって自分。
だから、自分が自分とちょうどいい距離感でいられたなら、そこはすでに愛でいっぱいの空間になるような気がする。
空気みたいに見えなくて、当たり前で気づきにくいかもしれないけれど、きっとそこにある気がする。