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ほんの少しの背伸びをさせる 学級経営と子育て
そのままでいいよ
そのままの君でいいんだよ
こう言った言葉には、相手を受け入れ、認める力があります。
一方で、言葉の真意と相手との関係や、場面、タイミングなどで、
言葉の効果や意味が変わってきます。
小学校における学級経営、子供たちとの関わりと、
親としての子育てを中心に、
「ほんの少しの背伸びをさせる」ことについて、情報を共有します。
「エース」なんていない
学級で、何かしらの代表を選ぶときに、
「うちのエース」と言う言葉を使い、一部の子に任せる様子を見かけることがあります。
学級も複数の子供たちからなる集団、組織、チームとして考えられるので、
それぞれの個性を、それぞれのポジションとして当てはめることもあるでしょう。
でも、
学級に「エース」なんて、いていいのでしょうか。
少なくとも、教員の方がそう考えていいのでしょうか。
私はそれにとても違和感を覚えます。
「エース級」の、現在の力をもっている子もいるでしょう。
それがそのまま、学級のエースとなるかどうかは別の話です。
浅はかな平等論を述べているのではありません。
子供たちのもっている力の、一側面をもってして「エース」を作り上げていいのかという思いが、多くの教員や学校で横行している考え方にダウトをかけているのです。
学級は社会ととても酷似していながら異なる場所です。
とても守られた、限定的な関わりにある集団です。
そのような条件下では、誰もが「エース」となる機会や可能性をもつべきであり、
誰もが「エース」なのであれば、エースは存在しないと言うことになります。
その役割で得られるものは 成果なのか 成長なのか
学級の代表的な何かしらの役割を選ぶとき、
その役割に相応しい子=その役割を卒なくこなすだろうと予想される子
として考える教員が多いです。
多すぎます。
これは、厳しい言い方ですが、経営者としての力不足を否めません。
私はこう考えます。
その役割に相応しい子=その役割を通し、最もタイミングよく成長を期待できる子
今、卒なくその役割ができるのなら、その役割の経験を通して得られる成長としての伸び代は、さほど大きくないと言うことです。
一方で、その役割を果たすことが「挑戦」としての意味をもつ子は、
さまざまに学び、失敗を含めて豊かな経験値とすることができる。
つまり、成長の伸び代が大いに期待できると言うことです。
この「挑戦」こそが「ほんの少しの背伸び」として表現していることです。
ほんの少しと言うところがポイントで、
無理難題となってしまう子にとっては、よきタイミングではないと考えられます。
ほんの少しの背伸びは 子育て全般に必要
ほんの少しの背伸びをさせれば、失敗をすることもあるでしょう。
これまでにないことに取り組んでいるわけですから、
精神的な困難も、ときには感じることでしょう。
そういった子供の営みを支えることこそ、「励まし」です。
そしてこれは、学校、学級だけではなく、
日々の、すべての保護者が子供にもつべき姿勢だと思います。
転ばぬ先の杖を何歩も先まで持たせ続けた結果、
子供は、転ぶと言う経験を得ない代わりに、
失敗から得る大切な知恵、教訓などを失うことになります。
できること、できることが硬く予想されることばかりに取り組ませ、
失敗を伴った試行錯誤の機会を奪うことは、
子供の成長の機会を奪うことと同じです。・
ほぼ間違いなくできることばかりに取り組んできた子が、
自己肯定感、自己需要感を、本当に得られるでしょうか。
教員が、親が、
自分の安心感のために、子供に、いつまでも「転ばぬ先の杖」を持たせ続けるのではなく、
ほんの少しの背伸びをさせ、
その姿を見つめ、認め、寄り添って上げ続けることが、
子供の、豊かな、逞しい成長につながると考えています。