【母の指図に対する不快感】自分の意思が出てくるようになったということ
さっき、母とのやりとりで強烈にモヤモヤしたので、その正体を探ってみます。
やりとりの中身は、私の髪色について。
いとこの結婚式が来週に迫り、「もうすぐだね」と話していた流れで、母が「美容院に行かないとね」と言いました。主語がなかったので、「お母さんが?」と聞くと、「いや、ゆめが」と言いました。
そして、お母さんがいいと思う髪色を提案してきました。
表向きは「この色ゆめに似合いそう」という言い方だけれど、その裏には「結婚式という場で恥ずかしくない、悪目立ちしない色にしてほしい」と言う意図が透けて見えます。
母が言いたいこともわからなくないし、かつての私なら母同様無難で安心安全な選択をしていたと思います。
でも今の私は、母の関わりがものすごく悲しいし、むかつきます。
なぜかというと、私の中から出てくる「こうしたい!」が無視されている気がするから。
今まで蓋をしてきた「本当はこうしたい」という欲求が、最近ようやく出せるようになりました。
なにかと理由をつけてやってこなかったブリーチを思い切ってやってみたり、母に微妙な反応をされようと自分が着たい系統の服を着たり。
そうして徐々に自分の意思を尊重できるようになって、「あぁ、今までなにを我慢していたんだろう」と、不自然な状態だったことに気づきました。
せっかく解放できたのに。
「私はこうしたい!」という意思が出てくるようになったのに。
冒頭の母の関わりは、私の自由な意思を抑え込み、母にとって望ましい状態に持っていこうとするものに感じられます。
それに対して、ようやく出てきた私の意思が反抗しているのだと思います。
「もう親の思い通りにはなりたくない」
「自分がどうしたいかを大切にしたい」
そんな純粋な気持ちが反応している。
だからってその場で母になにか言えるわけではなく、こうしてnoteに書きながらようやく整理できました。「あぁ、だから嫌だったのね」って。
とはいえ、昔の自分に比べたら、自分の気持ちに気づくスピードが格段に上がっています。そもそもモヤモヤすらしていなかっただろうし。
『自分の意思で生きる』
簡単なようですごく難しいけれど、少しずつできるようになってきた気がします。
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『深い雑談』というものをやっています!
私が今noteで書いているような話は、そもそも人に話しにくかったり、話したところでわかってもらえなかったり…
家族すら、もしかしたら家族だからこそ、私が感じている苦しさやもどかしさを話しても伝わっている気がしない。それがすごく切なくて。
ずっと、私の感覚をわかってくれる相手を探していました。わかってほしい、理解してほしい。同意はしなくていいから、ただ私の考えを尊重してほしい。「ゆめはそう思うんだね」って、私の感覚が伝わる相手がほしい。
学生という枠がなくなって、世界がちょっとだけ広くなったことで、私の感覚をわかってくれる人と出会えるようになりました。
もちろん、完全に同じ人なんていない。でも、自分にない感覚の話を、「そういう感覚もあるんだ」とわかろうとしてくれる人がいる。
そのことに、私はすごく救われました。自分の感覚は間違いじゃないんだ、自分は自分の感覚を信じていいんだって、思えるようになりました。
私も、誰かにとってそんな存在になれたら。
私が日々考えていることを言葉にすることで、似たように日々考えている人が「この人となら話せるかも」と感じるかもしれない。
そして実際に話してみて、自分の感覚を誇らしく思えたら。
なんかもう、すごく嬉しいなって思うんです。
なかなか自分の感覚が伝わらない、でも誰かにわかってほしい。
そんな気持ちを抱えていたら、ぜひ一度お話ししませんか?