「つらいね」の一言が欲しいだけ
最近また、喉が痛い日々を過ごしています。
寝ているときに口が開いているせいか、子どもの頃からよく喉に不調が表れていました。
未だ詳しい原因はわかりませんが、エアコンでも乾燥するようなので、枕元に濡れタオルを置くなどしています。
今回、喉が痛くなったことで収穫がありました。
それは、家族から「痛みに共感された記憶がない」という気づきです。
もっと言うと、痛みからくる精神的苦痛に共感してもらったことがありません。
これに気づいたきっかけは、友人とのLINEでのやりとりです。
体調を心配してくれた友人に「喉が痛くて萎えてる」と言ったら、「喉痛いのつらいね…」と返ってきました(これ以外にも状況を伝えていたので、私の心情を想像してかけてくれた言葉でした)。
そのときは「心配してくれてありがたいな」というシンプルな感情でしたが、じわじわと沁みてくるものがあって。
「そう、つらいんだよ…」
と心の中で思えたときに、泣きそうな気持ちになりました。
そういえば、私が体調を崩したときに家族に「つらいね」って言われたことがあったか?
振り返ってみると、少なくとも直近の記憶にはありませんでした。
「今どんな感じなの?」と聞いてはくれます。気にかけてくれていることは伝わる。
けれど、「今はこんな感じかな」と言うと、具体的な対策の話(病院に行くのか、家にある市販の薬を飲むのか etc.)にしかなりません。
もしくは大したことがなければ「そっか」で終わり、違う話が始まる。
私もその関わりが当たり前になっていたから、なにかを期待しないように状況説明しかしなくなっていました。病院の問診と変わりません。
今考えると、「心配してほしい」「つらさをわかってほしい」という気持ちが出てこないよう、抑え込んでいたのだと思います。
きっと小さい頃に期待を裏切られて、傷ついたんだろうな。
「つらいね」と言われたところで、治るわけじゃありません。それよりも具体的な対策を話し合った方が合理的でしょう。
でも、そうじゃないんだよ。
自分の身に起きている痛みやつらさを想像してくれた人の「つらいね」は、全然表面的じゃなくて。
孤独な気持ちを和らげてくれる。それによって痛みも和らぐ。
そんな関わりが、我が家にはなかったことがわかりました。
特性的に、相手の感情を想像して寄り添うことが難しいのだとしたら、それは仕方ない。
できないことは、求めても仕方ない。
自分だってできないことを求められるのはつらい。
でも、だからって、私の悲しさをなかったことにはしたくない。
家族の誰にもつらさをわかってもらえず、ただ淡々と治るのを待つ日々。
味気ない。希望がない。
家族が体調を崩したときは「つらいね」って、少しでも気持ちが楽になったらって声をかけていたけれど、あれは全部無駄だったのかな。
父にも母にも兄にも、そういう関わりは必要なかったのかな。
私ばっかり必要のない「つらいね」を伝えて、一番必要な私には返ってこない。
あぁ、25年分の悲しさがようやく出てきた。
悲しい悲しい悲しい。
苦しくもあるけれど、この気持ちに気づけてよかった。
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