私にとっての苦しさは「孤立感」
昨日の記事を書いてから、「私にとっての苦しさってなんだろう?」と考えていました。
「苦しい」と一言で言っても、いろんな種類があるなと思って。
物理的な痛みに対する苦しさもあれば、悔しい思いをしたり、ひどいことを言われたり…
苦しいと感じる場面はいろいろあるし、人によって苦しさの程度も違うと思うんです。
私が苦しいと感じてきたことを振り返るうちに、共通しているものが見つかりました。それが『孤立』です。
以前、孤立に関する記事を書いたので、こちらも読んでいただけると嬉しいです。
家の中での孤立感を別の言葉で言い換えると、
・味方がいない
・安心できない
・どんな自分でも大丈夫と思えない
などが浮かびました。
親、特に母に受け入れられていると思えなかったのかもしれません。
今振り返ってみて思うのであって、過去の自分はそんなふうに自覚したことはありません。
ですが、親が受け入れやすい自分を演じていた自覚はあります。
奇抜な髪色や服装、メイクにはせず、一般的と言われるもので満足した気になる。進路選択の際も突飛なことは言いださず、ちょっと頑張れば手が届きそうな範囲で自分の希望を探す。
なんでもかんでも言っていい、「自分はこうしたいんだ」と言って親を驚かせたところで、自分の価値は揺らがない、というような絶対的ななにかが、自分にはない。
親の常識の範囲内でないと、受け入れてもらえない。
そう思い、親に自分を合わせて生きてきた結果、自分が本当はどうしたいのか、考えても簡単にはわからない状態になっていました。
精神的に働けなくなってから、どんな自分でも大丈夫という感覚が少しだけわかるようになりました。
友人たちといるとき、疲れて眠ってしまったり、周りを気にせず自分の興味のまま動いたり。
かつては「人といるときはこうでなければ」というルールを前提に生きていたので、その頃の自分が見たら「なにしてるの!周りのことを考えなさいよ!」と怒るであろう振る舞いです。
ですが当時の私は、最低限のエネルギーしかない感覚で、「社会的にこうあるべき」「常識的にこうすべき」といったことまで考えられない状態でした(むしろそれまでが、あれこれ考えるエネルギーがありすぎだったようにも思えます)。
それでも、友人たちは変わらず接してくれました。
私を責めたりせず、受け入れてくれました。
「なにかを頑張っていなければ、自分には価値がない」
なんていうふうに思っていた私にとって、なにも頑張れていない、ただそこにいるだけなのに、それでいいらしいということを知り、衝撃を受けました。
家の中で「どんな自分でも大丈夫」と思えていなかった私にとって、親との関わりは、いつも演技だったのかもしれません。
ギャグを言いたがる父の話を、愛想よく聞き、笑ってあげる。
母のパート先での出来事を、共感しながら聞いてあげる。
自分も学校での出来事を話してはいたけれど、「なにを感じ、なにを考えているのか」は理解されている気がしないから、表面的な話しかしなくなりました。
自分を理解されないことの悲しさ。
親の理解の範囲におさまらないと、なかったことにされる虚しさ。
「どんな自分でも大丈夫」と思えない、心細さ。
前より少しだけ、自分の苦しさがわかったように思います。
さみしかったんだなぁ。