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周りで起きていることを「自分に関係があること」と思うのはなんでだろう
今日は、周りに気を配りすぎる自分を見つけました。
「周りに気を配る」のは良い面もあれば、度を超えると疲弊してしまう側面もあって、それ自体が〈良いor悪い〉ということではないと思っています。
ただ、自分がそうするのには特有の背景があると思うので、「なぜそうしたんだろう?」と考えてみようと思います。
出先で、軽く食べられる飲食店に入ったときのことです。
一人のお客さんが多く、私を含めてほとんどの人が二人がけのテーブルを一人で使っていました。
食べ始めた頃は空いている席もあったのですが、途中で満席になりました。
なんとなく周囲の状況を見ながら食事をしていたところ、小学生のお子さんとお母さんが来店し、座る場所を探していました。
私は瞬時に、
①二人がけの席が空いていない
②カウンター席は空いている
↓
私がカウンター席に移れば、親子がこの席に座れる
と考えました。
結局すぐに席が空いたので私が席を譲る必要はなかったのですが、あのまま状況が変わらなかったら、きっと私は声をかけていたと思います。
私の感覚では、自分にとって苦じゃないことで状況が良くなるなら、それはお互いにとってハッピーなことだと思っています。
ですが一方で、「私がそこまでする必要があるのか?」という問いも生まれます。
店内には、食べ終わっているのにスマホを見ているお客さんもいました。
食べ終わった人が席を立てば親子は座れるし、親子だって席が空かないのであれば待つか違う店に行ったと思います。
私が考えていたことは、私がしなくてもいいことだと思います。
それなのに瞬時にそれを考えるのはなぜだろう?
周りで起きていることを自分に関係があることとして捉えるのはなぜだろう?
今思いつくのは、「自分がその人の立場だったらこうしてもらえたら嬉しい」といった感じで、相手の立場で想像する癖があるということ。
ではその癖はどうしてついたのか?と考えると、母がなにに困り、どうしたら助かるかを常に考えていたからかもしれません。
自分と母との間に境界線を引けていなかったことで、〈母の問題=自分の問題〉と認識していたのかも。
そしてその認識の仕方が私の土台になり、知らない人に対しても似たような感覚になる。
そんな可能性が考えられます。
今すぐ変えられるものではないし、使い方によっては良い面もあると思うので、「自分にはそういう傾向がある」と理解し、自覚的に気を配れたらよさそうです。
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