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定期的に集まる3人、生まれた違和感

やっぱり友人との関係性って難しいなと感じた話。特に3人以上。

先日、学生時代からの友人たちと久しぶりに集まりました。私にしては珍しく、女子3人で長く続く関係です。

私は基本的に一対一で会う方が気楽なのと、女子だけの集まり特有の同質性みたいなものだったり、比較が生じる感覚が苦手なのですが、このメンバーではあまり気にならないので、今も定期的に会いたくなります。


ただ、ここ一年ほどで私の価値観が大きく変わり、この3人での会話に対する感じ方も結構変わりました。

このモヤモヤは、今の自分について知る大事な手がかりになりそうなので、言語化してみようと思います。




推し活の話は、熱量が揃わないと楽しめない

友人AもBも、推し活を楽しんでいるようでした。

それぞれ推している対象は違うのですが、今の生活における推し活の割合や、好きという想いの強さ、推しに会うための行動量などが近く、お互いの話を共感しながら聞いていました。

「それほど好きな気持ち、わかるよ」

といった感じでしょうか。好きを語るうえで、言葉はいらないのだなと感じました。

好きという気持ちを言葉で説明するのではなく、「好きだから好き」という感覚を全身で伝える。それが伝わるのは、聞き手も同じように「好きだから好き」という感覚を知っているから

というのも、それぞれの推し活の話を聞いているとき、私はついていけない感がありました。

アイドルグループのSnowManに一時期はまっていましたが、日々情報に触れることに疲れ、少し距離をとった状態で応援するのが自分には合っていると判断しました。なのでふたりのような推し活をしたこともないし、特定の対象にそれほどまでに夢中になる感覚も知らず、「そういう感覚もあるんだな」と想像することしかできませんでした。

私としては、好きなものを語る友人の顔を見ているのは楽しいし微笑ましい。あと、アーティストごとのファンとの関わり方や、それを実現するためのシステムには興味があったので、それについて教えてもらえるのは楽しかったのですが、本人としてはそこを詳しく話したいわけじゃないだろうし、もうひとりもそこに興味があるわけじゃなさそうだったので、私の興味は途中でそっとしまいました。

なにが言いたいかというと、話が合わないということ。

そして3人でいると、自分の興味だけでなくもうひとりの興味とも重なる話をしないと、と思うから、難しいな~と感じました。


恋愛観のズレ、前提共有の難しさ

同じ環境で過ごしていた学生時代は、恋愛観もそれなりに似ていたように思います。

恋愛観とは、「こういうお付き合いをしたい」といった恋愛に対するイメージや、そもそも恋愛をどれほど重要視しているか、などだと思っていて、それはもともとの本人の考えも関係しつつ、その人が触れている情報や、身近にどんな人がいるかで大きく変わると思います。

かつては「恋愛ってこういうものだよね」みたいなイメージがある程度共有されていたから話しやすかったけれど、各々いろんな経験をしたり、いろんなタイプの人に出会う中で、恋愛観のズレが大きくなった印象を受けました。

それ自体が良くないのではなく、前提の違いを擦り合わせる必要性と、その難しさを強く感じました。

例えば「付き合うなら年上がいい」という発言だけでも、年上とは何歳くらいを指しているのか、年上にどんなイメージを持っているのか、年上がいいと思ったのはなぜかなど、人それぞれ違ってくる。

私としてはひとつずつ丁寧に聞きたいけれど、案外「わかる!年上いいよね」と話が進んでいくから、なんとなくしかわからないまま話を合わせる感覚がありました。


共感から理解へ

Aの話を聞いているときのBと自分の相槌を比較して、共感というものの捉え方が変わっていることに気づきました。

Bの相槌は、世間的にイメージされる共感的な反応の最上級とも言えるものです。タイミングよく、相手のテンションや温度感に合わせた声のトーンで「うんうん」と言います。「わかる」「そうだよね」と言ったり、「確かに~だとそういう気持ちになるよね」と一言添えたり。

かつての私はこのような相槌を理想と思い、自分自身も実践していました。でもこのときは、そのような共感的な反応をしなくなっていました。

なぜかというと、共感できるほど相手の話を理解できていないと思ったから。


例えば「こんなことがあって嬉しかったんだ」と聞いたとき、以前の私は「そっか、それは嬉しいね」と話し手が言ったことそのものに共感を示しているような感覚でした。

相手が思っていることを肯定する感覚とも言えるかもしれません。

私にとって話を聞くときの最優先事項が相手が安心して話せることだったので、相手が思っていることを肯定するという行為も、安心してもらうための手段のひとつだったのだと思います。

なぜそうするかと言えば、私がそれを望んでいたから。人に自分の話をするという行為は、私にとって常に不安が伴う行為で、安心して話せる相手や環境を渇望していました。

きっとその不安は、無価値感が生み出すのでしょう。相手の時間を奪っている罪悪感や、自分の話に価値がないという感覚があるから、「そんなこと気にせず、安心して話して」と言ってほしかった。だから私は、それを人にするのだと思います。


でも今の私は、それよりも相手が言っていることをより正確に知りたいという気持ちの方が強くなっていました。

「こんなことがあって嬉しかったんだ」と聞いたら、どうして嬉しいと感じたのか、あなたにとって嬉しいとはどんな感覚なのか、嬉しい以外にどんなことを感じたのか、こんなことがあった経緯はどんなものなのかなど、最初の一言だけではわからない部分を知りたい。そのために質問したい。

なにもわかっていないのだから、まだ共感できる段階じゃない、という感覚があることがわかりました。


そう思うと、かつての私のコミュニケーションは、わかった気になって表面的に共感を示していたのかもしれません。

それが心地いいと感じる関係性もあると思いますが、今の私はそれでは物足りなくなっている。その変化に気づけたいい機会でした。


書いていくうちに、自分が感じていたことがクリアになってきました。

一言でいえば、私が求めるコミュニケーションの形が変わり、友人と合わなくなってきたということなのだと思います。

私がそう感じたように、友人側も「なんか違うな」と感じたかもしれません。


人は日々変わります。合うときもあれば、合わないときもある。

その時々で関わりたい人と関わることが、自然で健やかなことなんじゃないかと私は思います。

とはいえ、出会って数年経った今もこうして会える関係性に感謝だなぁ。

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