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長く続くのは、変わることを受け入れられるから
高校からの友人と、久しぶりに会った。
大学時代もたまに会っていたし、精神的につらい時期も会いやすい存在だった。
すごく仲が良いという感覚はないけれど、何気に10年も関係が続いているのだから、なにかしら特別なものがあるのだと思う。
「仲良くしよう」と思っていないあたりが肩の力を抜くことに繋がり、結果として関係が続いているのかもしれない。
長く関係が続くというのは、なかなかすごいことだなと思う。
私が日々変わっていくように相手もまた変わっていくわけで、うねうねと蛇行しながら伸びていく2本の道のイメージが湧く。
仲が良かったときはたまたま道が重なっていただけで、しばらくすれば離れていくものだなと思っている。
離れていく原因は、環境の変化などももちろんあると思うけれど、価値観の変化による影響も大きいと思っていて。
かつては似た感覚だったから分かり合えたけれど、価値観の変化によってそうではなくなる、という感じ。
それでもなお関係が続くというのは、人間関係は「こういう価値観だから仲が良い」という静的なものではなく、「変わりゆく価値観を理解し合うことでしか続かない」という動的なものだとお互いが認識しているからかなと思う。
ここ数年で私の価値観は大きく変わったけれど、今日会った友人は、私の変わった部分も変わらない部分も両方見てくれている気がする。
そしてまた友人も、会うたび価値観がアップデートされているように感じる。経験がそうさせるのは当然だけれど、それだけでなく、それに基づく価値観の変化を恐れていないというか、過去にしがみつかず流れに身を任せているような印象を受ける。
それだから、私は安心して今の自分をさらけ出せるのだと思う。
今の私の話をしたあとで、一緒に「ブレーキをかけられるようになったんだ、成長したね~」と笑い合えたのが印象的だった。
新たに出会って仲良くなれるのも嬉しいけれど、“価値観が大きく変わる前の私”を知っている存在というのも貴重だなと改めて感じた。
過去を捨てるわけではなく、過去は過去、今は今、そして未来は未来として、ごちゃ混ぜにせずそれぞれ大切にしていきたいなと思った一日だった。
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『深い雑談』というものをやっています!
私がnoteで書いているような話は、そもそも人に話しにくかったり、話したところでわかってもらえなかったり…
家族すら、もしかしたら家族だからこそ、私が感じている苦しさやもどかしさを話しても伝わっている気がしない。
それがすごく切なくて。
ずっと、私の感覚をわかってくれる相手を探していました。
わかってほしい、理解してほしい。同意はしなくていいから、「ゆめはそう思うんだね」って、ただ私の考えを尊重してほしい。私の感覚が伝わる相手がほしい。
学生という枠がなくなって、世界がちょっとだけ広くなったことで、感覚が伝わる人と出会えるようになりました。
もちろん、完全に同じ人なんていない。でも、自分にない感覚の話を、「そういう感覚もあるんだ」とわかろうとしてくれる人がいる。そのことに、私はすごく救われました。
自分の感覚は間違いじゃないんだ、自分は自分の感覚を信じていいんだって、思えるようになりました。
私も、誰かにとってそんな存在になれたら。
私が日々考えていることを言葉にすることで、似たように日々考えている人が「この人となら話せるかも」と感じるかもしれない。そして実際に話してみて、自分の感覚を誇らしく思えたら。
なんかもう、すごく嬉しいなって思うんです。
なかなか自分の感覚が伝わらない、でも誰かにわかってほしい。そんな気持ちを抱えていたら、ぜひ一度お話ししませんか?