周りの目を気にせず、ひとりでブランコに乗る
今日、誰もいない公園でブランコに座りました。なんならちょっと漕ぎました。
「大人がひとりでブランコを漕いでるなんて、恥ずかしいかな」
「周りの人にどう見られているんだろう」
一瞬気にしたものの、「なにか思われたところで、問題ないか」と思えるようになっていました。
最近家にこもりがちで、久しぶりに外を歩きたくなったので散歩に出かけました。暑さが和らいだ夕方頃。
少し歩いたあと、ちょっと座って休憩しようと思いました。近所の公園を見たら、誰もいません。
ベンチでもよかったけれど、どうせなら久しぶりにブランコに座りたい。子どもがいたら遠慮するけれど、誰もいないんだから、別にいいよね?
若干ためらいつつ、欲に忠実にブランコに座りました。
懐かしさや風の気持ちよさ、子どもがいない寂しさを感じつつ、やっぱり気になるのは周りの目。
学童帰りの親子が近くを通るたび、「どう見えてるんだろう…やっぱりひとりでブランコに座ってるの変かな…」と思う自分がいました。
でもそれで終わらず、
「いや待てよ、仮に親子に「あの人ひとりでブランコに座ってる~」と言われていたとして、だからなんだ?」
「直接なにかを言われることもなければ、悪い評判が広まるみたいなこともない。だったらどう見えていようと、私がしたいようにすればいいか」
というところまで発展しました。
こう思えるようになったのは、
・なにかを思われた“先”まで想像するようになった
・“自分がしたいこと”を大事にできるようになった
このふたつが関係していると思います。
ひとつめは先に書いた通り、「思われたとして、それがどう影響するのか」を考えたということです。
そしてふたつめは、「私はブランコに座りたい!」という明確な意思があり、それを大事にしたい、尊重したいと思ったということ。
数年前の私なら、そもそも自分がブランコに座りたいかどうかもわからなかったから、少しでも懸念点があると「じゃあそもそも座らなければいい」という判断をしていました。
自分がどうしたいかわからないから、外側の基準に合わせてしまう。波風立てない選択をしてしまう。
それは言い換えると、なにかに反抗してまで貫きたい意思がないということだと思います。
でも今は少しだけ、貫きたい意思が出てきたような気がします。
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『深い雑談』というものをやっています!
私がnoteで書いているような話は、そもそも人に話しにくかったり、話したところでわかってもらえなかったり…
家族すら、もしかしたら家族だからこそ、私が感じている苦しさやもどかしさを話しても伝わっている気がしない。
それがすごく切なくて。
ずっと、私の感覚をわかってくれる相手を探していました。
わかってほしい、理解してほしい。同意はしなくていいから、「ゆめはそう思うんだね」って、ただ私の考えを尊重してほしい。私の感覚が伝わる相手がほしい。
学生という枠がなくなって、世界がちょっとだけ広くなったことで、感覚が伝わる人と出会えるようになりました。
もちろん、完全に同じ人なんていない。でも、自分にない感覚の話を、「そういう感覚もあるんだ」とわかろうとしてくれる人がいる。そのことに、私はすごく救われました。
自分の感覚は間違いじゃないんだ、自分は自分の感覚を信じていいんだって、思えるようになりました。
私も、誰かにとってそんな存在になれたら。
私が日々考えていることを言葉にすることで、似たように日々考えている人が「この人となら話せるかも」と感じるかもしれない。そして実際に話してみて、自分の感覚を誇らしく思えたら。
なんかもう、すごく嬉しいなって思うんです。
なかなか自分の感覚が伝わらない、でも誰かにわかってほしい。そんな気持ちを抱えていたら、ぜひ一度お話ししませんか?