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適切に悲しむということ
親戚のおばあちゃんが亡くなったと聞いて悲しくなったのですが、昨日はバイトがあったので、気持ちを切り替えて働いていました。
帰宅後も落ち着かず、静かに悲しみを感じることができずにいました。
今日、恋人と電話で話していて、自分が不自然に明るく振る舞っていることに気づきました。
考えられる要因として、「暗いままだと周囲の人を困らせてしまうから、早く明るくならなきゃ」と思っていること、そして家族があまり悲しんでいないことがあります。
一つ目は、私が落ち込んだり泣いたりしていると、母が困ったような顔をすることが影響していそうです。
適応障害になってからも、気持ちが不安定になりよく泣いていたのですが、そんな私を見るのがつらいと言われたことがありました。
確かに親の立場になって考えたら、苦しんでいる子どもを見るのがつらいのも分かります。
でも私としては、そんなことを言われたら泣く姿を見せられなくなってしまう。明るく振る舞わなきゃと思ってしまう。
だから今回も、悲しむ姿を見せたら心配をかけてしまうと無意識に判断し、大丈夫なふりをしていたのだと思います。
二つ目に関しては、関係性の遠さゆえに悲しさを感じにくいのかもしれません(私が見ていないところで悲しんでいる可能性もゼロではないけれど)。
周りの人たちがケロッとしていると、そっちに無意識に合わせてしまい、自分も悲しくないと錯覚してしまう。
でも本当は悲しいから、隠した気持ちの行き場がなくなってしまったような感覚がありました。
そもそも、泣いたり悲しんだりするって良くないことなのでしょうか?
私は、亡くなった人を想っているのだから自然な反応だと思うし、ネガティブと言われるような感情もなくてはならない大事なものだと思っています。
でも母からは、なんとなく〈ネガティブな感情=悪〉という前提を感じます。
「受け止められない」「見たくない」と思われているような気がする。
私はどんな感情も表現したいし、受け止めてほしかった。
でも、それを一番してほしかった母から、うっすらとした拒絶を感じてきたのかもしれません。
とにかく今日は、母の目などを気にせず適切に悲しむことにしました。
ひとりでおばあちゃんの近くに行き、気が済むまで悲しさを感じ、涙を流しました。
周りに影響されず、自分のペースで感情と向き合うというのは、案外とても難しいのかもしれません。
意識的にそういった時間をとれるといいのかも、と思いました。
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