【エッセイ】大森靖子から分析する、経験した事ないのに共感する歌詞について
音楽を聴く時、歌詞を重視して聴く。
共感したいから。
共感をベースに、音楽を聴いている。
しかし、自分が経験した事ないのに、何故か強く共感する、そういう事が頻繁に強くある。
大森靖子が大好きで、その理由の大きくは、歌詞に共感するからだ。
でも、その共感する歌詞の、多くは、別に自分が今や過去に抱いた事のある感情では無い。なのに共感してしまう。
例えば「えちえち DELETE」という曲。
いつまでも 好きを うまくできなくて
好きじゃない 好きじゃない
好きじゃないみたく好きをする
という歌詞があり、めちゃくちゃわかる!!
共感度100%!わかるー!!!
って感じながら聴くのだが、ふと考えたら、僕はこういう風に全く思ってないし、過去にこうなってた事もない。
全然僕と違う。全く僕と違う感情だ。
なのに、凄い共感する。
これは一体なんなんだ??
そして、こんな歌詞もある。
女扱いされないよりも
ジェラピケ着こなせないほうが
ショックでかかったな
寝ても忘れない
わかる!でも完全にわかる訳ではない!
共感度50%!
しかし、これも全く僕は感じた事ない。
ジェラピケもギリ知ってるだけで生活圏内にない。
よく考えたら全然わからん。
でも、かなり共感する。
歌声の力?いや、こうやって文章化しても、共感出来る。
次に、こんな歌詞
女扱い慣れてるなんて
最初は印象悪いけど
クラッときちゃったら
なんでもしちゃうな
これはわからん!!でもほんの少しわかる気もする!
共感度10%!
むしろ「ああそうなんだ」って、自分の知らないものへの発見になる。
だが、共感度が0%ではなく、10%はわかる。
なんでだよ!どこから来てるんだい!!
このように、同じ共感でも、どのくらい共感出来るかのパーセンテージは変わってくる。
なんで、自分とは違うのに、自分と一緒と感じてしまうのか。
集団無意識みたいな、言ってしまえばおしまいよという万能ワードに頼らず、しっかりと考えてみたい。
それでは、一方、例えばこの歌詞
楽しい日々を暮らし 夢に向かって歩いて
自分にも人にも優しく そんな気持ちを抱きしめたい
これは、僕が今パッと作ったのだが、僕の気持ち、思いをそのまま出した。
だが、読んでもそんなに共感しない。
は!?おまえの心を書いたんだから、共感しないとおかしいだろ!
いや、でも、この歌詞が言ってることわかるとは思うのだが、だからなんだと思って、共感はしないのだ。
これは、大森靖子の歌詞と逆である。
大森靖子の歌詞は、共感出来るけど自分にはない
この歌詞は、共感出来ないけど自分にはある
なんでこのような事が起こるのか??
この二つの歌詞の違いは、具体性と、切実さだ。
大森靖子の歌詞の方が、具体的な事を書いていて、そして、差し迫っている。切実さがある。
なんとなく、な事を言われても、スーッて通り過ぎてしまい、心に響かない。
具体的で、かつ、切実な感情がこもっていたら。
目を向ける。気が惹かれる。そして、自分の中にもそれがあるような感じがする。
もしかしたら、自分が感じた事あるものを思い出させているというより、いまリアルタイムでその感情を与えているのかもしれない。
こうだよ!こんなのあるよ!
その歌詞が、いままさにどうしても必要な感情として力強く書かれている為に、聞いている人が、それもあるんだ!と、与えられる。
そして、与えられている事に気付かず、共感を始める。
歌詞によって、僕にその感情が作り上げられているのだ。
体験した事ないけど、体験した事ある気がする。
なぜなら、歌詞によって、いままさに体験させられているからだ。
大森靖子のさっきの歌詞に特に共感しなかった人には、
太田裕美の「木綿のハンカチーフ」がわかりやすいかもしれない。
こちらの歌詞は、共感出来る人が多いのではないか。しかし同時に、自分が似た体験や気持ちを抱いた事が無い人も。
まあ、ちょっと大きい視点で見て、大切な人との遠ざかり方と別れ、というふうな物に自分の人生で似た体験があって、そのエピソードを思い出して共感する、というのもあるかもしれない。
しかし、聴きながら共感してる間は、いちいちその事を思い出していないのでは。
経験した事ないけどわかる。
それは、歌詞によって経験を与えられているのだ。