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ダム怪談 坂本(さかもと)ダム
今回ご紹介をしたいダムは心霊スポットとしての怪異譚は全くない。いざ調べてみたら、坂本ダムの工事中に殉職者が出ていたようで、これが関西のダムなら恐らく此処だけでは?と思うのがあったのでモザイクなしで画像をアップ致します。
坂本ダムは1959年に工事が着手され、1962年に完成したダムでダム湖の名称は坂本貯水池になる。
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工事は戦後の高度経済成長機に造られたのだが、お名前の一覧に"韓"の漢字が用いられた方がいることに気づいて頂けただろうか?
色々"韓"の漢字の名前はとネット検索で調べてみたがやはり韓の漢字が入る名前はハングルで"ハン"と読むらしいというものだ。歴史上においては、心霊スポットでいうなら朝鮮トンネル(=二股隧道)が戦前に強制連行された朝鮮人により造られたために怨念が遺っているという怪異譚が存在するが、実際は違うようで悪い話だけが独り歩きをした結果、心霊スポットの怪異譚になったのだろう。
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北海道には朱鞠内湖の名前で知られている雨竜第一ダムがある。凄惨過酷なタコ部屋労働により強制労働させられた方々によって造られたのはあまりにも有名な話である。
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因みにわたしが今まで訪れてきた戦後に完成したダムには、坂本ダムと同様で慰霊碑には日本人じゃない名前が刻まれている。
場所をあげると、東京の小河内ダムと神奈川の相模ダムになるのだが、心霊スポットとして取り上げられるとしたら、小河内ダムならダム湖の奥多摩湖、相模ダムなら相模湖とダム湖が心霊スポットと化しやすく、また相模湖では実際に事故があったためにそれがきっかけで心霊スポットと化したようだが、奥多摩湖に関しては自殺の名所とされているが、どう思い返しても、バス停でバス待ちをしていたら黒い煤だらけの作業着を着た男性が、トントントントンと足音をたてながら近づいてくると、背後から聞こえる足音に気付き振り返るが、ほんの一瞬目があい、あっという間に消えてしまった。
しかし今回紹介する坂本ダムは、戦前から工事が開始され、戦争期の物資が乏しくなった関係で工事が中断され、終戦を迎え工事の再開にめどがたったため工事が開始され完成した小河内ダムや相模ダムとは経緯や理由が異なってくる。
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果たしてタコ部屋労働による強制労働があったのか恐らくだが、戦前まではあっただろうが、戦後GHQの指導元で新たに労働基準法が定められたことでタコ部屋労働たる凄惨過酷な働き方などは存在しなくなったと思われるが果たして…?黙殺された闇の歴史が明るみにされていない以上、闇を明るく照らすことにより故人への弔いになるのでは?と思った理由があった。
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わたしが実際に心霊体験した小河内ダムでも今回訪れた坂本ダムでもだが、お供えをしたら亡くなられた作業員の方々が身内でもないのにと言いながらもありがとう、と言って歓迎してくれるのとは理由が違う。小河内ダムでも坂本ダムでも言われたことが此処で死ぬことは本望ではないということだ。
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実際にタコ部屋労働によるダム工事が雨竜第一ダム以外でもあったのか?ということになる。雨竜第一ダムは戦前に工事がはじまったが戦時中の資材不足により工事が一時中断した点においては小河内ダムや相模ダムと共通する。
果たして真相は?となると殉職者がいる以上は丁重に弔っているのは間違いのない事実だが、同時にお供えをしてからのそんなことでは喜ばないという要求があまりにも歓迎されない印象を強く受けた。
余談 相模ダムでみた御霊の印象は歓迎されないというより失望しか感じられなかった。
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坂本ダムで見たのは、一瞬目の錯覚?とも思ったがいや明らかに堰堤を歩いていたら白い作業着姿の若い男性が二人いたのは確認できた。勿論、管理事務所の扉にはシャッターが閉まっており人気は全くない。恐らく、作業中に亡くなられた作業員の可能性が高く、声を大にして訴えられない気持ちを吐露している可能性が極めて高い。
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真相がわからないからこその憶測でしかないことを前もって話しておく。これはわたし個人の意見であり、違う可能性もあるため、改めて古い時代の資料から探し出す必要がある。
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散策してみて分かったことが、工事の作業中に亡くなられたのか、タコ部屋労働ならば脚気(かっけ)や食料不足が招く栄養失調による病が原因なのか。少なくとも、故郷に帰りたくても帰ることが出来ず、また自分の思いとは裏腹にダム工事の仕事を従事していたわけではないようだ。
現代は機械での掘削工事が出来るが、当時のダム工事は作業員の男性達が蒸し暑い環境中で只管つるはしを用い岩盤を掘削していく。
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この作業は当然ながら命懸けで、掘削した場所の岩盤が脆いと崩壊して大事故にも繋がりかねない。つまり、生きては帰ってこれないことを百の承知で引き受けないと誰も喜んでしない仕事の一つだった。
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誰もが喜んで引き受けたりしない仕事だから、労働者の募集を呼びかける際に良い宣伝文句で呼び掛け採用したが実際は宣伝していた内容と全く異なる肉体労働をさせられていたのかもしれない。
死してもなお、訴えたいことがあるのだろう。
それは、帰るべき場所に帰り旅立ちたかった。
人里離れた山奥の僻地(へきち)だからこそ、工事が完了までは脱走するにしても命懸けだっただろうし、働き続けても生き地獄に違いない。
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最後になるが、改めて戦後におけるダム工事の実態がどんなものだったのか、資料があるかはわからないが調べてみる価値がありそう。
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ということで、今回の記事では結論は出しません。あくまでも、闇の歴史がありそうだという話です。
吉野郡上北山村にあるダムだが、記事にも書いていることだが、行くのも帰るのも極めて困難で地元の方々からも"池原ダム※後に紹介予定※から坂本ダムに行くまでの道のりが危険"という認識は一致しており、わたしも危険だという覚悟を決めた上で軽自動車で向かったが、国道425号線ではあるがほぼ林道に等しくまた未整備の箇所が多いために倒木による折れた木の枝が道を塞いでいる。
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落石等は見受けられなかったものの、これはあまりにも酷過ぎると思ってしまった。因みに坂本ダムから国道425号線を真っ直ぐ尾鷲市内に入るとクチスボダムというダムがあるが、このクチスボダムまでの道のりも道は狭くたまにすれ違おうとする車があるぐらいだが、道のすれ違いも乗用車同士であれどかなり困難な狭小路であるため、車の運転に不慣れな人にはすすめない。
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わたしが記事で紹介した写真は、ダムカード取得の際に掲示して頂いてOKなので、特に尾鷲市内にある三重県立熊野古道センターで坂本ダムとクチスボダムのダムカードを取得出来るのは良いが写真の掲示を絶対求められる上写真がないと厳しく問い詰められる。吉野郡下北山村にあるきなり館では写真の掲示がなくとも道程が酷道過ぎるという理由から坂本ダム、池原ダム、七色ダムのダムカードを写真掲示がなくとも貰える。熊野古道センターの方はどうやら国道425号線を走破したことがないようだ。
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とにかく、現代においても行くのも帰るのも地獄なのは変わりない…。
※内容は一部訂正しました。