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【ノベルゲーム感想_01】narcissu
名作フリーノベルゲーとして、平成の時代から語り継がれている作品です。
末期患者を題材にしていることから、題名と概要のみ知っている方からは死生観、あるいは死を用いた感動が要点となる作品だと誤解されがちです。
確かに主人公もヒロインも末期患者で、死に場所を求めて彷徨うような描写はあります。ですが巷での評判、死生観がテーマであるとか、死を用いた感動作であると断定するには作中内の情報量があまりにも不足しています。
独白シーンはモノトーン、あるいはブラックアウトした背景であることがほとんど。テキストも心情をつらつらと書き連ねるものではなく、1ページ僅か2行の中に淡々と言葉を残す形式。心理描写も感情を見せる時はあるものの、真意が開かれることはありません。
主人公達が最後まで目的を見出せなかったように、最後まで物語の方向性を示さない読み物です。
作品から方針を与えられなかった読者は、物語の余白を想像で補完します。
上述した世間の評判は登場人物達の境遇や、時折見せる彼らの感情から本作を死生観を題材にした作品である、あるいは感動作であると決定づけ、ご自身の感想としたのでしょう。
それは本作を読まれた方ご自身の感想であり、正解の1つです。
一方で例えば、死生観をテーマとした作品だと考えた方から見れば、感動作であるとした方の所感としては(一部で同意を得られたとしても)正解ではありません。作品の中に方向性を断定できる記述や描写がないためです。
空白だらけの物語に、読み手自らの意志を補完することで完成するノベルゲーム。さながら湖に映ったナルシスのように、読者の所感が物語の主題として返る鏡面的な作品。それが『narcissu』です。
ただし『narcissu -SIDE 2nd-』以降のシリーズ作と絡めて本作を読むことで
作品の方向性が固まり、翻って本作の題材も明かされます。同じ筆者の作品ですし、続編から読み取れる情報を参考に、方向性を逆算的に固定させることは可能です。
そうやってシリーズ作との統一感から方向性を定めるのも、本作から与えられる情報だけで想像するのも、どちらも正解かなと。極力作り手の意図を与えない、多くを読み手の想像力に委ねる構成を、私はとても好ましく思います。
■今の私が感じる『narcissu』
初プレイは2005年とか2007年とかそのぐらいだったような。以後、数年に一度読み返す物語です。都合4回目、今回は7~8年ぶりぐらいでしょうか。読むたびに所感が異なるのは自身の経験に拠るところなのでしょう。
前回は主人公とセツミが取れる選択肢の少なさから「何も無かった」から「悪いことばかりじゃない」程度にはなったが、それ以上にはならなかった物語であると読みました。
どこか自分優位というか、末期患者に少なからず憐憫を向けた感想です。
今の自分が気にしているのは、40年以上も生きてきた中で、主人公とセツミが得た生きた証と同等の何かを、倍以上の経験の中で自分はどれだけ得ることができたのだろうか、ということ。
私は自らの人生をつまらないとは感じておらず、年を取るごとに毎日が楽しくなっているので後悔はありません。しかしセツミ達が得た何事にも代え難い感情のようなものを得られたとも思えません。
一方でセツミ達が得られなかった感慨や感情を、私は人生の中で得ています。それこそ生きた二十余年の半分が無為であった彼女に比べれば、より様々な経験を得ています。
けれどその上で、セツミ達が最後に得た経験と感情に対し羨望を覚えます。
「眩しかった日のこと。そんな冬の日のこと」。
近しい体験を、私は生涯で得ることができるのでしょうか。
何とかしようと思い続けて、でも何をすれば良いのか分からない日々を過ごしています。それこそ、淡路島に進路を決めるまで、目的がなく苦悩していたセツミ達のように。
この焦燥感はいつになっても、それこそ死の間際まで持ち続けていそうです。生きた長さが解決してくれるものでもない気がする。
ただ私は、結果には過程が伴っていることを知っていて、過程は楽しむものであることも知っています。そして過程を得られる時間は、今までよりは短くなってしまったけれど、まだ猶予はあるものと信じています。
そして「眩しかった日のこと。そんな冬の日のこと」とは異なるけど、匹敵するであろう価値のある何かはこれまでの経験で得られたと思っています。
ならば、とりあえず何かをしようとして、その過程を楽しんで生きれば、これからも自分だけの何かは得られるんじゃないかなと。
根拠はないのですけれどね。
でもまぁ、何とかなるんではないかと思ってみたり。
せっかく得られた、人によっては得られない機会と期間を持っているわけですし、何をすれば良いのかわからないけど、何かはしてみようかなと。
そんな理由で始めたモノの1つがこのnoteです。
とある日のこととして、いつか振り返ることのできる時が来ることを信じて、色々がんばりたいなと。
4回目の『narcissu』はそんな感慨を抱きました。
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こちらのような気がします