【エロゲ感想_01】幻月のパンドオラ
パッケージデザインは一般的なキャラ萌えエロゲを彷彿とさせるものの、プレイしてみると総じて地味。ヒロイン個性は尖りすぎで入れ込みづらく、個別ルートの各シナリオは綺麗に着地しているものの凡庸。
悪いゲームではないが特筆すべき箇所もない、数多のエロゲと変わらない評価を下されがちな作品です。
しかし、ごく個人的な私の所感ではありますが、『幻月のパンドオラ』は発売当時(2009年)の流行を追ったわけでも、購買者ニーズの最大公約数を狙って作られたわけでもないと考えています。
よくよく読んでみるとシナリオ本体で勝負している作品ではなく、ゲーム全体を通してコミュニケーションの大切さ、理想と現実に対する折り合いのつけ方といった、ブランド「Q-X」の他作品と同じテーマで語られた作品であるように受け取れました。
ヒロインの個性にしても萌えキャラエロゲらしい可愛らしさを意識しつつも、読み手が自らの問題として考えるためにあえて尖った個性付けがなされていたように思います。
とはいえ主張がわかりやすかったわけでもありません。
同じQ-X製の『こころナビ』ほど露骨でもなく、『こころリスタ!』のように押し付けるわけでもなく、ふんわりと提示していました。
ゆえにプレイヤーがテーマに気付けず、凡庸なキャラゲーと評されてしまったのでしょう。本作がゲームを通じて何を訴えたかったのか、少し考えてみました。
■演じる自分と在りたい自分
生徒会長ヒロインに新入生歓迎の言葉を述べさせるエロゲは数多に存在しますが、uni先輩のそれはエロゲ屈指の名シーンです。
多くの人が美人と認める容貌。入学生を惹きつけるための考えられた言葉の数々。凛々しくも寄り添うように優しい声。みんなが期待する「新入生を歓迎する在校生の言葉」を的確に表現していました。
それだけに僅か10分後、同じ人の言葉で謳われるゲーム愛が強烈です。その姿は正にオタクそのもの。好きなことへ全力で打ち込み、同志を求めるuni先輩の姿は、同じゲーマーとして共感しつつも痛々しさの伴うものであったことは否定できません。
以降も彼女は自分のやりたいことをやるために、美人生徒会会長として周囲に求められる姿を成し続けます。一方で生徒会活動には興味を示さず、ゲームと向き合う時間に全てを費やしたいと考えています。
詩乃鈴は兄に真意を探られないようにするため、家の中では家族らしく(地の性格に近いとはいえ)近い距離ゆえのうっとおしさを強調し、外では一転して大人びた性格を演じ続けます。
ですが本心では兄に対し恋人として接することに憧れていました。
また兄を篭絡するため、女性として恵まれた体を生かそうとダイエットにも励んでいました。
ですがエレボスの件を抜きにしても食を大事にするのが詩乃鈴です。満足するまで食べ続けたいけど、兄の横に並べる女性になるためには我慢しないといけない。やはり目的と相反する欲望に悩まされていました。
真姫は他2人ほどではないにせよ、厳格な父が求める娘像と自らが求めるものに悩んでいました。それが権藤の存在であり、部屋のレイアウトであったりと様々。
とはいえ父親は疎ましく思うどころか尊敬し愛する存在であったため、父の求める娘を演じ、本当になりたい自分は心の中へとしまい込みます。
自分の在りたいように振る舞いたいけれど、目的を達成するため、あるいは身近な大切な人のため、周囲から求められる自分を演じ続けているのが本作ヒロインの共通項です。
そしてそれは主人公・文樹がパンドオラのゲームを通して苦悩していた、ゲーム化対象の女性が理想とするキャラクターを嫌々ながらも演じていた姿と全くに同じです。
本当はゲームで洗脳する形で対戦相手の女性達を抱きたくない文樹。
しかし抱かないとエレディーユの目的を阻止することは叶わず、何より彼女達を心の苦しみから解放してあげることができない。だから在りたい自分に成れないことに不快を示しつつも、対戦相手の理想を演じます。
何よりゲーム化対象の女性達自身、在りたい自分とそうなれない現実のギャップに苦しんでいるが故にトゥナに捕捉され、ゲーム化対象となります。
人は何らかの事情のために、自らの欲望だけを求めて振る舞うことができません。だから在りたいと思う自分と、周囲からの希望で演じる自分にどうやって折り合いをつけるか模索します。
その過程を書くことが本作の目的の1つ。自己実現の欲求と、社会的欲求/承認要求のギャップを埋める若者たちを書いたお話です。
■あえて二番煎じを用いた理由
テーマが顕著だったのは、やはり詩乃鈴ルートでしょう。ブランド「Q-X」の十八番ともいうべき兄妹恋愛。過去作のいずれもが禁忌の愛を意識し、その心を受け入れ、社会との折り合いのつけ方を前向きに考えるお話、いわば幸せを模索する物語でした。
文樹と詩乃鈴も御多分に漏れることなく同じ道を歩みますが、その上でなお詩乃鈴のパーソナルは支離滅裂に書かれていました。
家の外で見せる外向きの装いと、家の中で見せる「やかましくウザい妹」のギャップ。幼稚とも取れる振る舞いに反する、女性として恵まれた肢体。
食欲の問題も、兄に女性として見られたい詩乃鈴の悩みとして欲望と現実の綱引きを手助けしていたように思います。
それが終盤へ向かうにつれて、喧嘩しまくっていた各属性が徐々に馴染みはじめ、ついには家の外でも自分を装うことをやめます。
同時に素の状態でも装っていた時に見せた、冷静で大人びた一面を見せるようになります。文樹と共に悩み苦しんだ経験を経て、理想と現実が折り合いを見せ始めるのです。
この辺りでようやく詩乃鈴の良さが理解できたように思います。
ちぐはぐな個性や発言は兄に振り向いてほしいから。けど叶わないことを知っていたから兄(家族)のために諦めて、でも諦めきれないジレンマ。
さながらデフラグ前のグチャグチャなデータのように、彼女の心は欲望と現実の狭間で軋んでいたのでしょう。
それがデフラグされたこと、加えて兄が自分を女性として認めてくれたことで心の歪みが矯正され、筋の通った妹兼恋人として成熟したのかなと。
実際エンディング時の詩乃鈴はワガママ妹と恋する女の子、双方の魅力に溢れているのですよね。第一印象の悪さがそれこそ嘘のように。
詩乃鈴の持つアンバランスな見た目と性格は、お世辞にもプレイヤーに迎合されていたとは思えません。シナリオも言ってしまえばブランド過去作の再演です。
ですがテーマを語る上で妹属性は殊更相性が良かったのでしょう。今まで培ってきた妹ヒロインの表現力を用いることで、詩乃鈴が抱える自己実現欲求の遷移をユーザへわかりやすく伝えられていたように思います。
■徐々にゲームから離れるuni先輩
なんとも鮮烈な登場を果たしたヒロインでした。繰り返しになりますが、新入生歓迎の言葉からの部員勧誘シーンは掛け値なしに衝撃的。特にそこそこ歯ごたえのあるレトロゲーを好まれる方は、彼女の演説に惚れ込んだのではないでしょうか。私は惚れました。
ゲーム好きヒロインは他のエロゲノベルゲー作品にも多数登場しますが、大抵のヒロインはゲームのやりこみ度や特徴を語るだけの形式的なもの。
uniほどゲームに対する姿勢を語る娘はお目にかかったことがありません。ライターさんはよほどゲームが大好きなのか、あるいは研究されていますね。
ですが個別ルートに入るとその熱意は徐々に霧散します。
ゲームへの情熱自体は持ち続けているものの、電芸部の存続問題やフィンランドにいる妹の存在、そしてトゥナの問題が一斉に噴出するからです。
彼女がゲーム好きとなったルーツは家族が原因ですし、トゥナの抱える問題はuniの問題と全くに同質なもの。ゲーム以上に真剣に取り組まないといけない問題が発生したから、大事な方に専念したわけです。
ではゲームはなおざりにされたのか、というと結果は真逆。ゲームを制作するにあたり、初露やトゥナ、家族との問題を解決したことが結果としてゲーム制作により良い結果をもたらしたことは、uniルートのエンディングを見れば瞭然です。
これは各ルートにおける文樹も同様で、電芸部に入ったことで発生した様々な出来事やパンドオラでのゲームにおける経験、ヒロインの抱える問題と真剣に向き合ったことが、彼のライターとしての能力を向上させていました。ゲーム以外で経験したことが結果としてゲームに関わる何かに生きているわけです。
何もゲームに限定したことではありません。詩乃鈴ルートでは兄妹恋愛という大よそ他者が経験し得ない現実を生きたからこそ、その成果が物書きの能力として付与される(されそうな)表現がされていました。
真姫ルートにおける魔人化も同様ですし、なんならパンドオラでのゲーム体験だって、相手に向き合ったことが経験となっていそう。
uniルートの話に戻ると、彼女はあまねくゲームを体験し、好き嫌いせず真剣にゲームへ取り組むと同時に良いゲームを作ろうとしていました。
ですが彼女のクリエイター適性をより高めたのは、ゲーム体験と同等以上に人生における様々な経験でした。
だからエンディング時、学生ながら世間に認められるゲームを排出できたのでしょう。
本作では近親相姦も含め、好きなものに対し真剣に取り組むことを常に肯定しています。同時に、好きなものだけに打ち込むだけではより高みへ昇華できないともしています。
ゲームが好きならゲームをより楽しむために、創作がしたいならより良い創作活動ができるように、他のことを経験する大切さを説いた作品でもありました。
■ゲームと現実の境目
文樹はパンドオラを介して女の子とゲーム勝負をするわけですが、インターフェースとグラフィックはリアルな自分視点そのままであるため、現実との境目が酷く曖昧です。
さすがに千歩子や詩乃鈴の時はゲーム内容に伴い顔や姿形が最適化されていましたが、その上でなお現実との区別が付きづらい世界観でした。
またゲームとはいえ、勝負に負ければ対戦相手の心を解放できず、なにより魔人達の目論見が潰えることで彼女達から制裁されかねません。
自分のため、そして対戦相手の人生がかかっているがために、文樹は真剣にゲームへ取り組み攻略します。
ゲームを攻略するのと並行して、文樹はヒロインが抱える悩みにも真剣に取り組んでいました。
詩乃鈴とは姉弟恋愛に苦悩し、uni先輩とは彼女の妹とトゥナの2択を迫られ、真姫に対しては彼女の存在を繋ぎとめるため。それぞれ真剣に悩み考え、そして解決していました。
ゲームでも現実でも、相手のために奔走しているのですよね。だから個別ルートの後半、特に真姫ルートではゲームと現実の境目がどんどん曖昧になっていきます。
真姫ルートにおいて、彼女のためゲームに真剣に取り組む文樹に対し、敵であるエレディーユが最後に手を貸すシーンはその最たるものです。真剣だったからこそ手を差し伸べたわけで。
ゲームに対し真剣に向き合った結果、ゲームや制作者は見合った報酬を返してくれます。
現実世界におけるあらゆる出来事も同じで、相手に対して真剣に向き合えば結果は帰ってくる。向き合う努力をしていれば誰かが見ていて手を差し伸べてくれる。そんなゲームを題材にしたゲームらしい、現実の中に優しい嘘を紛れ込ませた見せ方でした。
■ゲームの中にあるもの
結局のところ本作は幸せの模索、難しくいえば自己実現の欲求を満たすためのコミュニケーションを大切に取り扱ったゲームです。
だから主人公やuniがより幸せを実感する瞬間は彼らが愛するゲームではなく、仲間や家族、恋人との対話の中にありました。
自分の気持ちを上手く伝えられなくても、相手の気持ちを理解しきれなくても、文樹は自らの気持ちを伝える努力を怠らず、uniは問題解決に向けてひたむきに取り組んでいました。
その結果、人生に対する充実感や妹との関係など、本当に欲しかったモノを手に入れていました。
しかし現実はそんな上手くばかり行くものではありません。正しい努力をしても結果が返ってこないこともありますし、突然の不幸に見舞われて幸せが一瞬で瓦解することもあります。
コミュニケーションだって相手のいる行為なわけで、自分が努力しても相手に歩み寄る意識が無ければ成立しません。
本作にはバッドエンドがありません。必ずハッピーエンドを迎えます。文樹がパンドオラでゲーム対象となった全ての女性を必ず救えるように、本作自体も個別ルートの存在するヒロインとのハッピーエンドが約束されています。
ブランド「Q-X」の過去作と同じ題材なのに、なぜ過去作と異なりコミュニケーションに失敗した結末がないのか。
パンドオラの元ネタは、いうまでもなくパンドラの箱です。
ゲーム内で携帯ハードウェアとして登場するDNP(発売当時の主力携帯ハードだった、DSとPSPのもじりでしょう)を箱に、パンドラをゲームソフトウェアに見立てた形です。
またパンドラの箱の奥底に最後まで残ったものが「希望」とされています。
文樹もパンドオラに触れたことで様々なトラブルに見舞われましたが、最後は必ずハッピーエンドでした。
つまりゲームをプレイし尽くして、クリアしたことで最後に見つけるものが願いをかなえる希望であり、それにより必ず幸せを迎えます。
ゲームは製作者からの、全てを遊び尽くすことで希望という贈り物を与えてくれる娯楽メディア。
加えて本作はゲームと現実の境目を曖昧に、果てには同一視しています。
現実もゲームと同じように、コミュニケーションに対し真剣に取り組み苦難も乗り越えれば、何がしかの形で希望を見出せる。
.…..そんなことを制作陣が考えたかは定かではありませんし、現実はそんな甘いものでもありません。ですがゲームを真に愛する人であれば、それだけのパワーを持った娯楽メディアであると信じたくなるような。
ただ私個人としては、ゲームという題材を真剣に分解し、ブランドテーマである幸せの模索・コミュニケーションと絡め、プレイヤーに提案し考えさせた『幻月のパンドオラ』をとても好ましく思います。
ここまでゲームを好きな制作陣の伝えたかったことであれば、ちょっとは信じてみようか。そう思わせるだけの熱意を感じたゲームでした。