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罪も愛も顧みず春は逝く~「許さない」という愛~(『Fate FH』主題歌より)

8月15日、劇場版『Fate/stay night Heaven’s Feel(以下 HF)』の最終章が、ようやく公開された。

ようやく、である。

もともと春に公開予定だったところが、コロナ騒動で延期になり、桜もとうに散った真夏の炎天下、ようやくの上映だ。

しかし待った甲斐のある、凄まじい映画だった。
そして、主人公達みんなが「幸せ」になれる、いいストーリーだった。

もちろん、桜も含めて。

映画自体については、僕自身まだ消化しきれていないところがあって、また「ネタバレ」をするのも憚られるのでもう少し整理してからまとめることにして、今回は違った視点からこの「桜ルート」の話について考えてみたい。

今回の劇場版HFの主題歌になっている、Aimerという歌手の楽曲、特にその歌詞だ。

この歌手を僕は不勉強ながら知らなくて、この映画の歌で初めて聞いたのだけれど、表現の幅というか落差の大きい、いい歌手だなと感じた。
Fateシリーズの他の映像作品の歌も歌っているらしい。

今回Aimerさんが歌ったHFの主題歌は下記の3曲。

『花の唄』(i. presage flower)
『I beg you』(ii. lost butterfly)
『春はゆく』(iii. spring song)

いずれも作詞作曲は、映画の音楽担当である梶浦由記氏。
ということは、これらの楽曲はHFの内容、特にヒロイン間桐桜の内面を反映しているのではないだろうか。

そんな短絡的な仮説のもと、映画主題歌の歌詞を見ながら、桜の心情の揺れ動きについて考えてみたい。

「花」「雪」、「よろこび」「光」、「かなしみ」、「時」

上の写真は、3月の終わりに僕が家の近くで撮った風景である。
今年(2020年)の春は妙な季節で、暖かくなったと思ったらまた急に寒くなって、桜の花が咲く頃に雪が降るような、夢のようなこともあった。

桜の花と白い雪。

この2つは日本の言語文化ではよく関連付けられ、和歌でもよく桜を雪に例えたりするようだ。

今回扱うHFの主題歌でも、花と雪はキーアイテムとして登場する。
しかしその使われ方はなかなか特異で、それが独特な幻想的な世界観を作り上げている。

まず『花の唄』。

冷たい花びら
夜に散り咲く
まるで白い雪のようだね
切なく

「散り咲く」この花はきっと桜だろう。
桜の花と白い雪の類似がここで言及される。

しかし歌が進むと、雪は「かなしみ」の比喩としても使われ始める。

貴方の上に降った
かなしみを全て
払いのけてあげたいだけ

「降った」というからには、雪を言及しているように思われる。
「かなしみ」を「雪」に例える表現は、『I beg you』にも見られる比喩だ。

しんしんとかなしみだけがふりつもる

「しんしん」という擬音が、雪の降り積もる様を連想される。

「かなしみ」は、雪のように降り積もる。
そして「願望も悔恨もただ埋め尽く」し、「きずな結んだ」爪の傷跡さえ見えなくしてしまうのだ。

ここまで見ていくと、以下のような関係が成り立ちそうに見える。

花=雪=かなしみ

しかし『花の唄』の歌詞を見ると、別の関係性も見えてくる。

私が摘んだ光をみんな束ねて
貴方の上に全部
よろこびのように
撒き散らしてあげたいだけ

「摘む」「束ねる」となると、ここでは「光」は「花」に喩えられている。
その「花」を、「よろこび」のように撒き散らしたいというのだ。

光=花=よろこび

ところがこれと先ほど挙げた比喩表現の関係を重ねると、奇妙な等式が出来上がる。

花=雪=かなしみ
光=花=よろこび

かなしみ=よろこび?

もちろんこれは比喩表現の問題だ。
論理の問題ではない。

場面的に考えても、「冷たい花びら/夜に散り咲く」の一番と「冷たい花びら/夜を切り裂く」の二番が同一の場である保証はない。
(僕としては、一番は桜が士郎と過ごした「優しい日々」で、二番は桜が一人になった後の願望に思える)。
また二番の歌詞は、本来「よろこび」でないはずの「光」=「花」を、「よろこび」であるかのように「撒き散らす」ともとれなくもない。
(「夜」に喩えられる「優しい日々」という「夢」を「切り裂く」光=冷たい花びらとは、「諦めていた世界」にともる「温かな灯」でありながら、恋人達、特に桜にとっては「見ない振り」をした現実に引き戻すものでもあり、それは「よろこび」ではない、というのは深読みか)

しかし比喩表現の中の言語イメージの中にこのような揺らぎがあることが、詩全体に独特の幻想性と緊張感を醸し出し、桜の微妙で不安定な心情を「不安定」なままで映し出している、とは言えないだろうか。

「許さない」という愛

HF主題歌の歌詞でもうひとつ、気になっているキーワードがある。

「許す」という言葉の使い方だ。

この言葉に注目すると、『花の唄』の歌詞に秘められた「重さ」が見えてくる。

貴方のこと傷つけるもの全て
私はきっと許すことは出来ない
私を傷つけるものを
貴方は許さないでくれた
それだけでいいの

素直に聞くと、やや重たいながらも一途な愛の吐露に思える。
しかし映画のストーリーを知ってから改めて考えると、別の「重さ」があることに気付く。

なぜならば、「貴方(士郎)を傷つけるもの全て」には、私=桜自身をも含まれるからだ。

第二部で桜は、愛しい「先輩」を「傷つける」「汚す」ことに罪の意識を感じる場面を見せるので、桜が一番許すことが出来ないのは、むしろ桜自身なのだ。

そして士郎は、そんな桜を理解した上で、それでもまるごと桜を受け入れようとする。
第二部の雨の展望台のシーン(原作ゲームでは『Rain』という場面らしい)のあのセリフは、士郎の覚悟の証だった。

しかし、その「許し」を桜はどう受け止めるのか。

わるいことをしたらきっと貴方が
怒ってくれると約束したよね
「もしわたしが悪い人になったら許せませんか?」
(略)
「よかった。先輩になら、いいです」

愛しい人、大事な人たちを傷つける自分を、桜自身は許すことが出来ない。
にもかかわらず、士郎は桜を許してしまう。

だからこそ、桜は自分自身を罰するしかなくなってしまうのだ。
桜がもともと持っていた自責の念、自罰の性質を助長させたのは、皮肉にも士郎自身だった。

しかし、ここからは僕の想像なのだが、桜を許し続けると誓った士郎がひとつだけ許せないことがあった。

それは桜が桜自身を、傷つけること。

それは罪の償いでも購いでもない。
自暴自棄になった自傷でしかない。

私を傷つけるものを
貴方は許さないでくれた
それだけでいいの

ここでの「許す」は、「見放す」に近いかもしれない。

愛する人、大事な人を傷つけた罪の意識に押し潰され、自分自身を許せない桜を、士郎はその自責の念まで含めてまるごと受け入れる。

しかし自分で自分を罰し、傷つけることはさせない。責任能力がないと見放すこともしない。

側にいて支え守りながら、共に償おうとする。

そして桜も、自分を信じてくれる士郎に応えることを決意する。

しんしんと降り積もる時の中
よろこびもかなしみもひとしく
二人の手のひらで溶けて行く
微笑みも購いも
あなたの側で
私を許さないでいてくれる
壊れたい、生まれたい
あなたの側で

『春はゆく』は、「償えない影を背負って」、「それでも手を取ってとなりに佇んで」、共に一歩を踏み出す二人の歌だ。

冒頭の「それでも」の、なんと重いことか。

「幸せ?」と聞かれて、簡単に肯定できるには、かなしみを抱えすぎた。

しかしそれでも、「幸せでいる」と「優しい夢」(「優しい嘘」、とも言えるのかもしれない)を届ける。

罪も罰も、償いも購いも、二人だけで分かち合って。

それは「優しい世界」ではないだろう。
泥にまみれることにもなる。

しかし、風は吹いた。
扉は開き、季節は変わる。

時はしんしんと雪のように降り積もるが、また雪のように溶けていく。
積もった時を溶かした春も、やがては過ぎ去っていく。

罪も愛も顧みず春は逝く
輝きはただ空に眩しく 

そしていつか遠い未来、今の自分たちの償いの道を思い返して、こういうのだろう。

その日々は夢のように…

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