Citizen Kane ②ーROSEBUDー
Rosebud(薔薇のつぼみ)。
『市民ケーン』の主人公、チャールズ・フォスター・ケーンが最期に遺した言葉。
この言葉の意味を探るため、新聞記者が故人の関係者に取材し、彼らを通じてケーンの人生が語られるというのが、この映画の進行である。
旅の最後に記者は言う。
ケーン氏は欲しい物をすべて手に入れて、そして失った人なんだ。たぶん薔薇のつぼみは彼が手に入れられなかったか、失った物なのだろう。とにかく、それ(薔薇のつぼみ)は何も説明してこなかった。どんな言葉でも一人の男の生涯を説明することはできないと思う。いや、薔薇のつぼみはただの…ジグソーパズルの一つのピースにすぎないのかもしれない、なくしたピースなのかもしれないと思うんだ。
Mr. Kane was a man who got everything he wanted and then lost it. Maybe Rosebud was something he couldn't get, or something he lost. Anyway, it wouldn't have explained anything... I don't think any word can explain a man's life. No, I guess Rosebud is just a... piece in a jigsaw puzzle... a missing piece.
「どんな言葉でも一人の男の生涯を説明することはできない」
まったくその通りだ。
しかしこの「薔薇のつぼみ」という言葉に限って言えば、ケーンの生きざまの一側面を良く象徴しているのではないか。
映画を見ていない人にはネタバレになってしまって申し訳ないが、「薔薇のつぼみ」とはケーンが幼少期に生き別れた両親から贈られたソリの絵柄で、「失われた幼年期」の象徴だと言われている。
薔薇のつぼみは、その内側に強い生命力、ポテンシャルを秘めているように思える。
開いた花の力強さ、外へ外へと拡がりながら、花の襞と襞の間に無数の内的世界を抱えるその豊かさは、すでにひとつの小宇宙とも見間違うばかりだ。
しかし時が過ぎ、花片を一枚ずつ脱いでいく。
最後の一枚が落ちる時、残るものは何だろう?
虚無、ただそれだけだ。
薔薇がたたえていた無数の内的世界、無限の拡がりは霧散し、むき出しの性、おしべが空しく孤独に残る…
ケーンの人生も、薔薇に比することが出来るかもしれない。
様々な分野に力強く展開し、咲き誇った。
しかし「外」に拡がりながら、唯一最大の関心事は襞の間の「内」の世界、自分自身ではなかったか。
あんなに多くの意見を持っていた人はいないと思う。しかし、チャーリー・ケーンは自分以外決して何も信じなかった。彼は生涯自分以外確信するものをもっていなかった。
I don't suppose anybody ever had so many opinions. But he never believed in anything except Charlie Kane. He never had a conviction except Charlie Kane in his life.
ケーンのかっての親友リーランドが、取材に答えて語ったことだ。
「多くの意見」とは、花片の間の無数の内的世界、小部屋達だと言えるかもしれない。
しかしその小部屋を、ケーン=薔薇は信じることができない。
というのもその「多くの意見=内的世界」とは、結局ただの自己投影、自分自身の虚像に過ぎないからだ。
ケーンには収集癖がある。
死後に「カラスみたいだ」と揶揄されるほどに。
それはいわば、花片の襞と襞の間の空洞を、自分の虚像以外の実体で埋めようとしていたのではあるまいか。
そしてケーンは、自分の虚像の埋め合わせに、「人」すらも収集していたような兆しがある。
だからケーンの語る「愛」には、「他者」がいない。
あくまで「自分」が「自分」を愛することの延長ないし補完として、他人を「収集」するのだ。
愛! あなたは誰も愛していない! 私のことも、誰のことも! 愛されたい、それだけなんでしょう!
「オレはチャールズ・フォスター・ケーンだ。お前が望むものなんでも、挙げてみろ。そうすればお前のものだ。だが、お前はオレを愛さなければならない」
Love! You don't love anybody! Me or anybody else! You want to be loved - that's all you want!
‘’ I'm Charles Foster Kane. Whatever you want - just name it and it's yours! But you've gotta love me!‘’
二番目の妻スーザンが、ケーンに言い放ったセリフだ。
あまりに、痛烈で、あまりに的を射た指摘だと思う。
信念。
良心。
誇り。
そして、愛。
すべては結局虚しいもの。
すべては鏡に映った自分自身、虚像に過ぎなかったのだ。
一方で、こうも思う。
「薔薇」とは何か?
「ケーン」とは何か?
裸体のおしべだけではない。
身にまとった「花片」、その間の「内的世界」、花片が拡がるその外延、その総体こそ「薔薇=ケーン」なのだ。
虚像の重なりである自分自身を認めた上で、他者を自分の中の空しさの埋め草としてではなく、「他者」として尊重して愛することが出来たなら、ケーンは安らぎを得られたのかもしれない。
僕自身が出来なくて、愛すれば愛するほど「自分」と「他者」の境目がわからなくなるから人のことは言えないけれど…
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