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Her voice is full of....

さよならは言いたくない。さよならは、まだ心が通っていたときにすでに口にした。それは哀しく、孤独で、さきのないさよならだった。
I won't say good-bye. I said it to you when it meant something. I said it when it was sad and lonely and final.
レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』(村上春樹訳)ハヤカワ文庫, 2010 p592

別れのハグを拒まれた時、フィリップ・マーロウの台詞が頭をよぎった。彼女を残して駅に降りる。振り返って見た電車の中の彼女は、下を向いていた。

8ヶ月。
彼女が僕の街を離れてから過ぎた時間。
それは短いようで長く、僕ら二人をひどくよそよそしい場所に連れてきてしまったのだな。
越えて来たばかりの多摩川、夜闇のせいで暗く淀んで見える懐かしい川を眺める駅のホームに、吹きつける冷たい風。

彦星と織姫は、天の川に阻まれたとしても、年に一度の機会を逃さず、愛を育むことができた。
しかし僕らは、多摩川の同じ此岸にいながらも、ここまで離れてしまった。
僕らを隔てる流れは天の川より、まして多摩川よりも速く、広く、深く、そして激しいものなのだ。
それは、「時」という流れ。

君は先を急ぎ
僕はふり向き過ぎていた
知らずに 別の道
いつからか 離れていった
鈴木雅之『ガラス越しに消えた夏』

「あの頃の私はガキだった」
そう言って次のステージに進む彼女と、出会った最初の夜を反芻し続ける僕。
二人の隔たりは、天の川より大きく、深くなっていた。

「過去を再現できないって!」、いったい何を言うんだという風に彼は叫んだ。「できないわけがないしゃないか!」
彼は周囲をさっと見回した。まるで彼の屋敷の影の中に、もう少し手を伸ばせば届きそうなところに、過去がこっそり潜んでいるのではないかというように。
「すべてを昔のままに戻してみせるさ」と彼は言い、決意を込めて頷いた。「彼女もわかってくれるはずだ」
“Can't repeat the past?” he cried incredulously. “Why of course you can!”
He looked arround wildly, as if the past were lurking here in the shadow of his house, just out of reach of his hand.
“I'm going to fix everything just the way it was before, ” he said, nodding determinedly.  “She'll see.”
スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(村上春樹訳)中央公論新社 2006、p202

ギャツビー。
ここに来てようやく、君の苦しみを分かち合うことが出来たのだな。

『グレート・ギャツビー』を初めて読んだのは20代前半、ちょうどドイツから帰って来て1ヶ月くらいの時期だった。
しかしその時には、ギャツビーは何とも好きになれないキャラクターだった。あまりに感傷的で、時にあまりに自己中心的な感じがして、「ガキっぽく」感じてしまったのだ。
思えば僕自身が「ガキ」だったから、自分自身を見ている気がしてしまったのかもしれない。

しかし30代も後半になって読み直すと、また別の印象を受ける。
彼の少年のような純粋さ、夢を追い求める意思の強さに、「オジサン」になって憧れているのかもしれないし、彼の持つある種の繊細さや敏感さとそれにつながる弱さを許容できる寛容さを、歳を重ねて習得したのかもしれない。

ギャツビーとはどういう男か。
小説の語り手ニック・キャラウェイはこう描写する。

もし人格というものが、人目につく素振りの途切れない連続であるとすれば、この人物はたしかに驚嘆すべきものがあった。人生のいくつかの約束に向けて、ぴったりと照準を合わせることのできるとぎすまされた感覚が、彼には備わっていたのだ。一万マイル離れた場所に起こった地震にさえも反応する精緻な計器に繋がっているかのように。
If personality is an unbroken series of successful gestures, then there was something gorgeous about him, some heightened sensitivity to the promises of life, as if he were related to one of those intricate machines that register earthquakes ten thousand miles away.
スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(村上春樹訳)中央公論新社, 2006 p11

ギャツビーとは「彼自身のプラトン的純粋観念の中から生まれた像」、「一人の神の子供」(p181)だった。平たく言えば少年時代、未だジェームズ・ギャッツと名乗っていた時代に作り上げた「理想の自分」、「こうあるべき自分」を、一生かけて演じきったのだ。「それはいかにも十七歳の少年が造り上げそうな代物だった(p181)」けれど、「彼は最後の最後まで、その観念に対して忠誠を貫いた。(p181)」

村上春樹が下記のように、『グレート・ギャツビー』が「アメリカ的」であることを示すのにドン・キホーテを引き合いに出すことは、考えてみると示唆的だ。

それぞれの作品に対する個人的な好みをべつにすれば、この三つの作品(メルヴィルの『白鯨』、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』)はアメリカという国家とその文化の特殊性を鮮やかに切りとっているという点で最もティピカルにアメリカ的であるからだ。
その三つの作品を並べて比較してみると、我々はそこにひとつの共通した方向性を認めることができる。具体的に言うと、それぞれの小説の主人公が、
(1)志においては高貴であり、
(2)行動スタイルにおいては喜劇的であり、
(3)結末は悲劇的である
という点である。
そしてその高貴さ・喜劇性・悲劇性は小説的にたっぷりとーいささか危ういまでにたっぷりとー拡大されている。こういった作劇術を我々は「アメリカン・ドラマツルギー」と呼ぶことができる。もっと単純化して言うなら、「アメリカン・ドラマツルギー」とは新大陸に継承されたドン・キホーテ性=騎士性である。旧大陸が成熟し複雑化するにつれてほうり出しにかかったそういった種類の文学性が、アメリカの新しい土壌にしっかりと根づいて、改めて開花したということになるだろう。
そういった「アメリカン・ドラマツルギー」を二〇世紀の初頭に出現した巨大な大衆文化にすっぽりと適合させ、アメリカ文学の新しい方向性を切り開く先駆となったのが、このスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』である。そしてそこに至っていわゆる「アメリカン・ドリーム」という巨大な神話が登場してくるのである。
村上春樹『ザ・フィッツジェラルド・ブック』中央公論新社, 2007 p193-194

長い引用になってしまったが、さすがに「どうしても一冊だけにしろと言われたら、僕はやはり迷うことなく『グレート・ギャツビー』を選ぶ(『グレート・ギャツビー』p333)」と述べるほどこの小説に造詣が深いだけある。
正直これ以上何かを付け加えるのがおこがましくすら思えるけれど、「アメリカ的」という点については、僕なりに感じたことがある。
アメリカに行ったことがない僕ではあるけれども…

ギャツビーの生き方を見ていて思い出す、アメリカ由来の名言がひとつある。

時は金なり。
Time is money.

陳腐に聞こえるほど有名な言葉だが、「アメリカ的」という概念と結びつけると実は意外に含みのある言い回しだ。

「金」とは、マルクスが喝破したように、純粋な交換価値である。それ自体には使用価値、つまり使い道がないが、他の物と任意に交換できるということだ。
そして小説の舞台になった「ジャズ・エイジ」と呼ばれる1920年代ニューヨーク(この言葉自体フィッツジェラルドに端を発するけれど…)、もしくは現代の先進国など、高度に発展した消費経済においては、金で交換できないものはほとんどない(ように見える)。
つまり「金」とは、あらゆるものを手に入れることができる、無限の交換可能性を示しているのだ。

そして「時間」というものも、ある意味では交換価値そのものと言えなくもない。「時間」自体に価値があるというより、その時間を使って、言い換えればその時間と「引き替えに」何を行い、何を手に入れたかが重要だからだ。そして、これも「自由の国」の「アメリカン・ドリーム」という神話に関わってくるけれど、人は身分や地位によって、行動を制限されることはなく、自由である。つまり時間を使って、何をしてもいい。
つまり「時間」も、無限の交換可能性なのだ。

だからこそ、「時」と「金」をイコールで結ぶ「時は金なり」という表現は、両者の隠れた同質性にスポットを当てるクリティカルな光なのだ。

ギャツビーはデイジーと出会い、愛し合い、そして戦争によって引き裂かれた。
それによって失われたものは、何であったのか。

ギャツビーは過去について能弁に語った。この男は何かを回復したがっているのだと、僕にもだんだんわかってきた。おそらくそれは彼という人間の理念(イデア)のようなものだ。デイジーと恋に落ちることで、その理念は失われてしまった。彼の人生はその後混乱をきたし、秩序をなくしてしまった。しかしもう一度しかるべき出発点に戻って、すべてを注意深くやり直せば、きっと見いだせるはずだ。それがいかなるものであったかを…
He talked a lot about the past, and I gathered that he wanted to recover something, some idea of himself perhaps, that had gone into loving Daisy. His life had been confused and disordered since then, but if he could once return to a certain starting place and go over it all slowly, he could find out what that thing was.…
スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(村上春樹訳)中央公論新社, 2006 p202-203

デイジーと恋に落ちたことで失ったもの。
それは、「時間」だったのではないか。

それは5年という、定量化できるような意味での「時間」ではない。
それを使ってギャツビーが「彼自身のプラトン的純粋観念の中から生まれた像」を創り上げられたはずの時間。
あるいは、無限のアクションの可能性を秘めた、無限の交換可能性を担保する時間。
それをギャツビーは、失ってしまったのだ。

ギャツビーは、過去を回復したい。何ひとつ遺漏なく、元通りに。
それは愛するデイジーだけのことではない。
むしろ本当に取り戻したかったのはあの頃の自分自身、「生命の乳首に吸いつき、比類なき神秘の乳を心ゆくまで飲みくだすことができる(p203)」秘密の場所に登り詰められそうなほど、夢と理想と可能性に満ちた自分自身ではないだろうか。

そして、それほどまでに貴重な無限の交換可能性、すなわち「時間」を捧げたデイジーは、それに釣り合うほど魅力的でなければならない。
だからこそ、ギャツビーの中でデイジーは理想化される。

デイジーが彼(ギャツビー)の夢に追いつけないという事態は、その午後にだって幾度も生じたに違いない。しかしそのことでデイジーを責めるのは酷というものだ。結局のところ、彼の幻想の持つ活力があまりにも並外れたものだったのだ。それはデイジーを既に凌駕していたし、あらゆるものを凌駕してしまっていた。
There must have been moments even that afternoon when Daisy tumbled short of his dreamsーnot through her own fault, but because of the colossal vitality of his illusion. It had gone beyond her, beyond everything.
スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(村上春樹訳)中央公論新社 2006 p177-178

これはギャツビーとデイジーが5年振りに再会し、ギャツビーの屋敷で時間を過ごすのに立ち会った語り手ニックの洞察である。

現実が夢に追いつけない。もしくは夢が現実を追い抜いてしまう。
このドン・キホーテ的な転回は実はライトモチーフとして小説内に通低している。
ギャツビーは毎晩ウエスト・エッグの自邸から、デイジーが住む対岸イースト・エッグの桟橋の先端につけられた緑の照明を見つめていた。「デイジーと彼を隔てていた大きな距離に比べれば、その灯火は彼女のすぐ間近にー彼女に触れるくらい間近にーあるものとして見えた(p172)」から。しかしデイジーと再会した瞬間、その持っていた壮大な意味合いも、あとかたもなく消滅してしまった。
ギャツビーの実父は、息子から送られてきたニューヨークの大豪邸の写真をぼろぼろになるまで持ち歩き、たくさんの人に見せてまわった。「そのせいで今では、実物の写真よりはむしろ写真の方が、彼にとってよりリアルなものになってしまっているらしかった。(p310)」

このように、失われた時間と等価交換しうるまでに理想化されたデイジー。
その行き着く先は何か。

「金」、である。

「彼女の声にはぎっしり金が詰まっている」とギャツビーはあっさりと言った。
まさにそのとおりだ。でも彼に言われるまでそのことに思い至らなかった。そう、そこには金が詰まっていた。蠱惑がそこから尽きることなく立ち上がり、そして降りていくのだ。その心地よいちりんちりんという音、シンバルの歌…純白の宮殿の高楼には、王様の娘にして黄金色の少女…
“Her voice is full of money,” he said suddenly.
That was it. I'd never understood before. It was full of moneyーthat was the inexhaustible charm that rose and fell in it, the jingle of it, the cymbals' song of it.…High in a white palace the king's daughter, the golden girl.…
スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(村上春樹訳)中央公論新社2006 p218-219

無限の交換可能性である「時間」。
それと等価であるべきもの、それは純粋な交換価値である、「金」しかない。

しかしこれを言った時のギャツビーは、幻想がすでに崩れ去ってしまっていることを知っていた。
「金」とは(「時間」も同様だが)、確かに無限の交換可能性であったとしても、交換されずにそこにあるだけでは何の使用価値もないものであること。
そして、無限の交換可能性とは、この世のあらゆる素晴らしいものに替えることもできれば、この世のあらゆるつまらないものに替えることもできるということ。

無限と無限を無限に交換し続けた先に、ギャツビーの手元には何も残らなかった。

8か月振りに一緒に過ごした時間、クリスマスも近い騒々しいレストランの中、僕はずっと彼女を見つめていた。
酒を飲まなくなった彼女はひとまわり痩せ、そのせいか八重歯はひとまわり大きく見えた。小さい左手の薬指に光るものを、僕は見ることができなかった。

夢はすぐ手の届くところまで近づいているように見えたし、それをつかみ損ねるかもしれないなんて、思いも寄らなかったはずだ。その夢がもう彼(ギャツビー)の背後に、あの都市の枠外に広がる茫漠たる人知れぬ場所にー共和国の平野が夜の帳の下でどこまでも黒々と連なり行くあたりへとー移ろい去ってしまったことが、ギャツビーにはわからなかったのだ。
his dream must have seemed so close that he could hardly fail to grasp it. He did not know that it was already behind him, somewhere back in that vast obsurity beyond the city, where the dark fields of the republic rolled on under the night.
スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(村上春樹訳)中央公論新社 2006, p325

ふたつ手前の駅で降りて、彼女とよく遊んだ町を歩く。再開発の進む駅前は街並みが随分変わり、道が拓けて見通しが良くなった代わりに、思い出の詰まった店のいくつかは壊されてしまった。
残されたテラン・ヴァーグ(空き地)を眺めながら僕は、そこに二人の思い出を注ぎ込み、二人で過ごすはずだった時間、叶えるはずだった夢という宮殿を建立する。あの頃のまま、ひとつ残らず元通りに。

僕を現実に引き戻したのは、またしても彼女だった。
まさかLINEに返事がくるとは思わなかったし、また会えるとも思っていなかったのだけれど。

ギャッツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝にー
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。
Gatsby believed in the green light, the orgastic future that year by year recedes before us. It eluded us then, but that's no matterーto-morrow we will run faster, strech out our arms farther.…And one fine morningー
So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.
スコット・フィッツジェラルド(村上春樹訳)『グレート・ギャッツビー』中央公論新社 2006, p325-326

僕らの夢の航路は、まだ終わらないようだ。

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