別れのハグを拒まれた時、フィリップ・マーロウの台詞が頭をよぎった。彼女を残して駅に降りる。振り返って見た電車の中の彼女は、下を向いていた。
8ヶ月。
彼女が僕の街を離れてから過ぎた時間。
それは短いようで長く、僕ら二人をひどくよそよそしい場所に連れてきてしまったのだな。
越えて来たばかりの多摩川、夜闇のせいで暗く淀んで見える懐かしい川を眺める駅のホームに、吹きつける冷たい風。
彦星と織姫は、天の川に阻まれたとしても、年に一度の機会を逃さず、愛を育むことができた。
しかし僕らは、多摩川の同じ此岸にいながらも、ここまで離れてしまった。
僕らを隔てる流れは天の川より、まして多摩川よりも速く、広く、深く、そして激しいものなのだ。
それは、「時」という流れ。
「あの頃の私はガキだった」
そう言って次のステージに進む彼女と、出会った最初の夜を反芻し続ける僕。
二人の隔たりは、天の川より大きく、深くなっていた。
ギャツビー。
ここに来てようやく、君の苦しみを分かち合うことが出来たのだな。
『グレート・ギャツビー』を初めて読んだのは20代前半、ちょうどドイツから帰って来て1ヶ月くらいの時期だった。
しかしその時には、ギャツビーは何とも好きになれないキャラクターだった。あまりに感傷的で、時にあまりに自己中心的な感じがして、「ガキっぽく」感じてしまったのだ。
思えば僕自身が「ガキ」だったから、自分自身を見ている気がしてしまったのかもしれない。
しかし30代も後半になって読み直すと、また別の印象を受ける。
彼の少年のような純粋さ、夢を追い求める意思の強さに、「オジサン」になって憧れているのかもしれないし、彼の持つある種の繊細さや敏感さとそれにつながる弱さを許容できる寛容さを、歳を重ねて習得したのかもしれない。
ギャツビーとはどういう男か。
小説の語り手ニック・キャラウェイはこう描写する。
ギャツビーとは「彼自身のプラトン的純粋観念の中から生まれた像」、「一人の神の子供」(p181)だった。平たく言えば少年時代、未だジェームズ・ギャッツと名乗っていた時代に作り上げた「理想の自分」、「こうあるべき自分」を、一生かけて演じきったのだ。「それはいかにも十七歳の少年が造り上げそうな代物だった(p181)」けれど、「彼は最後の最後まで、その観念に対して忠誠を貫いた。(p181)」
村上春樹が下記のように、『グレート・ギャツビー』が「アメリカ的」であることを示すのにドン・キホーテを引き合いに出すことは、考えてみると示唆的だ。
長い引用になってしまったが、さすがに「どうしても一冊だけにしろと言われたら、僕はやはり迷うことなく『グレート・ギャツビー』を選ぶ(『グレート・ギャツビー』p333)」と述べるほどこの小説に造詣が深いだけある。
正直これ以上何かを付け加えるのがおこがましくすら思えるけれど、「アメリカ的」という点については、僕なりに感じたことがある。
アメリカに行ったことがない僕ではあるけれども…
ギャツビーの生き方を見ていて思い出す、アメリカ由来の名言がひとつある。
時は金なり。
Time is money.
陳腐に聞こえるほど有名な言葉だが、「アメリカ的」という概念と結びつけると実は意外に含みのある言い回しだ。
「金」とは、マルクスが喝破したように、純粋な交換価値である。それ自体には使用価値、つまり使い道がないが、他の物と任意に交換できるということだ。
そして小説の舞台になった「ジャズ・エイジ」と呼ばれる1920年代ニューヨーク(この言葉自体フィッツジェラルドに端を発するけれど…)、もしくは現代の先進国など、高度に発展した消費経済においては、金で交換できないものはほとんどない(ように見える)。
つまり「金」とは、あらゆるものを手に入れることができる、無限の交換可能性を示しているのだ。
そして「時間」というものも、ある意味では交換価値そのものと言えなくもない。「時間」自体に価値があるというより、その時間を使って、言い換えればその時間と「引き替えに」何を行い、何を手に入れたかが重要だからだ。そして、これも「自由の国」の「アメリカン・ドリーム」という神話に関わってくるけれど、人は身分や地位によって、行動を制限されることはなく、自由である。つまり時間を使って、何をしてもいい。
つまり「時間」も、無限の交換可能性なのだ。
だからこそ、「時」と「金」をイコールで結ぶ「時は金なり」という表現は、両者の隠れた同質性にスポットを当てるクリティカルな光なのだ。
ギャツビーはデイジーと出会い、愛し合い、そして戦争によって引き裂かれた。
それによって失われたものは、何であったのか。
デイジーと恋に落ちたことで失ったもの。
それは、「時間」だったのではないか。
それは5年という、定量化できるような意味での「時間」ではない。
それを使ってギャツビーが「彼自身のプラトン的純粋観念の中から生まれた像」を創り上げられたはずの時間。
あるいは、無限のアクションの可能性を秘めた、無限の交換可能性を担保する時間。
それをギャツビーは、失ってしまったのだ。
ギャツビーは、過去を回復したい。何ひとつ遺漏なく、元通りに。
それは愛するデイジーだけのことではない。
むしろ本当に取り戻したかったのはあの頃の自分自身、「生命の乳首に吸いつき、比類なき神秘の乳を心ゆくまで飲みくだすことができる(p203)」秘密の場所に登り詰められそうなほど、夢と理想と可能性に満ちた自分自身ではないだろうか。
そして、それほどまでに貴重な無限の交換可能性、すなわち「時間」を捧げたデイジーは、それに釣り合うほど魅力的でなければならない。
だからこそ、ギャツビーの中でデイジーは理想化される。
これはギャツビーとデイジーが5年振りに再会し、ギャツビーの屋敷で時間を過ごすのに立ち会った語り手ニックの洞察である。
現実が夢に追いつけない。もしくは夢が現実を追い抜いてしまう。
このドン・キホーテ的な転回は実はライトモチーフとして小説内に通低している。
ギャツビーは毎晩ウエスト・エッグの自邸から、デイジーが住む対岸イースト・エッグの桟橋の先端につけられた緑の照明を見つめていた。「デイジーと彼を隔てていた大きな距離に比べれば、その灯火は彼女のすぐ間近にー彼女に触れるくらい間近にーあるものとして見えた(p172)」から。しかしデイジーと再会した瞬間、その持っていた壮大な意味合いも、あとかたもなく消滅してしまった。
ギャツビーの実父は、息子から送られてきたニューヨークの大豪邸の写真をぼろぼろになるまで持ち歩き、たくさんの人に見せてまわった。「そのせいで今では、実物の写真よりはむしろ写真の方が、彼にとってよりリアルなものになってしまっているらしかった。(p310)」
このように、失われた時間と等価交換しうるまでに理想化されたデイジー。
その行き着く先は何か。
「金」、である。
無限の交換可能性である「時間」。
それと等価であるべきもの、それは純粋な交換価値である、「金」しかない。
しかしこれを言った時のギャツビーは、幻想がすでに崩れ去ってしまっていることを知っていた。
「金」とは(「時間」も同様だが)、確かに無限の交換可能性であったとしても、交換されずにそこにあるだけでは何の使用価値もないものであること。
そして、無限の交換可能性とは、この世のあらゆる素晴らしいものに替えることもできれば、この世のあらゆるつまらないものに替えることもできるということ。
無限と無限を無限に交換し続けた先に、ギャツビーの手元には何も残らなかった。
8か月振りに一緒に過ごした時間、クリスマスも近い騒々しいレストランの中、僕はずっと彼女を見つめていた。
酒を飲まなくなった彼女はひとまわり痩せ、そのせいか八重歯はひとまわり大きく見えた。小さい左手の薬指に光るものを、僕は見ることができなかった。
ふたつ手前の駅で降りて、彼女とよく遊んだ町を歩く。再開発の進む駅前は街並みが随分変わり、道が拓けて見通しが良くなった代わりに、思い出の詰まった店のいくつかは壊されてしまった。
残されたテラン・ヴァーグ(空き地)を眺めながら僕は、そこに二人の思い出を注ぎ込み、二人で過ごすはずだった時間、叶えるはずだった夢という宮殿を建立する。あの頃のまま、ひとつ残らず元通りに。
僕を現実に引き戻したのは、またしても彼女だった。
まさかLINEに返事がくるとは思わなかったし、また会えるとも思っていなかったのだけれど。
僕らの夢の航路は、まだ終わらないようだ。