シンデレラ桃太郎の東京日記 番外編2 仙台・荒浜〜あれから12年〜
あの時、荒浜小学校の黒板は「頑張ろう」「大丈夫」の文字で埋め尽くされていた。
津波で流された町には、住宅の基礎だけが残っていた。
海岸の小さな木像に、多くの献花がなされていた。
あの時の光景は、間違いなく職業人としての私のバックボーンに原体験として刻み込まれている。
あれから12年。
再び、この場所へやって来た。
荒浜小学校は、廃校となり震災遺構に生まれ変わっていた。
あの時の経験を語り継ぐために。
海水浴場などで賑わった町だという歴史が記されてあった。
黒板の「頑張ろう」は「ありがとう」に変わっていた。
メッセージビデオが流れていた。
印象に残った若い世代の言葉があった。
「いつも隣にいた人が、突然亡くなるかもしれない。だから、家族や友達は大切にしてほしい」
「津波被害に遭った町ではなくて、みんなの楽しい思い出が残る町・荒浜だと思ってほしい」
「(当時小学一年生)私が津波のことを覚えている最後の世代。だから、ずっと語り継がれるように、言葉にしていきたい」
基礎だけが並んでいた土地は、避難の丘が整備され、道路は津波を防げるよう、かさ上げ工事が行われていた。
一部の住宅基礎は、震災遺構として、後世に歴史を語り継いでいた。
海岸沿いには、観音像がそびえ立っていた。
家が無くなってしまった荒浜の町を見守るかのように。
高さは、荒浜を襲った津波と同じ。
普通の住宅の二階床面はゆうに超えている。
その横に、(おそらく12年前に私が見た)小さな木像が建っていたので、手を合わせた。
津波が起こった海を見た。
12年で、私も変わった。
結婚し、2人の子どもに恵まれ、その間に豪雨災害にもあった。
災害の時は、とにかく書いた。
伝わるように。忘れないように。
自分の現在地は、今でもよく分からないけど、前に進んでいる。
荒浜は、津波を語り継ぐ場所に生まれ変わった。
悲しい思いをする人が少しでも少なくなるように。
大切なことは、こういうことだろうか。
前に進むために、語り継いでいく。
言葉にする。
一人でも多くの人が何かを感じ、行動に移せるように。
雲一つない快晴のもと、広がる砂浜でそんなことを考えた。
そして、空(天)と大地(野)と海(洋)の名前が授けられたことに、12年間の思いを馳せた7/22の昼下がりだった。
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