満州への想い 〜向日葵新聞 第二弾 前編〜
向日葵新聞第二弾となる今回、お話を聞いたのは満州生まれの高橋公世さんです。父親の仕事の関係で15歳まで満州で生活された高橋さんがどのような生活をされたのか、日本で戦時中を過ごされた方達との違いなどを聞いてみました。
満州の位置はわかりますか?
皆さん、歴史の授業でよく聞く満州ですがどこにあったかご存知ですか?
現在の中国の東北部である黒竜江省、吉林省、遼寧省、内モンゴル自治区の東部を当時は”満州”と呼んでいました。この地域を昭和6年(1931 年)に日本は満州事変を起こし、侵略、占領しました。その後、昭和20年(1945年)には155万人の日本人が住んでいました。
高橋さんが生まれた時代
高橋さんは満州事変が起きた次の年である昭和7年(1932年)に満州、現在の黒竜江省の首都であるハルビンで生まれました。父親が神戸の商船学校を卒業後、アメリカ航路などの船乗りになり船の中で電気関係の仕事をしていました。その経験を活かし満州の発電所で働くために移住し、高橋さんが生まれました。
満州での生活はいい暮らしだった
満州での生活は想像ではとても辛かったのでは思いましたが、高橋さんに聞くと「辛くなんてなかった」と笑って答えてくれました。満州でも日本と同じように配給ではありましたが、食べ物に困ることはありませんでした。満州では"いい暮らしをしていた"と高橋さんは話されました。
基本的には家では日本食を食べていたそうですが、誕生日や祭り事の際には家族で中華料理を食べに行くこともありました。日本料理店も満州にはありましたが、日本食よりも中国人が作る中華料理の方が美味しかったのです。
通っていた日本人学校
高橋さんは満州にある日本人学校に通っていました。当時、満州ではいろいろな民族が入り混じって生活しており、それぞれの民族ごとに日本人学校、満人(満州人)学校、朝鮮人学校の3つも小学校がありました。高橋さんが通っていた日本人学校は1学年に1クラスのみでしたが、クラスには男女45-50人の生徒がいました。これでも少なかったそうです。
女学校に行っても勉強なんてしていられなかった
高橋さんは終戦の年である昭和20年4月に女学校の試験を受けました。見事合格して家から列車で3-4時間かかる四平省立女学校に進学しました。家から遠かった為、寄宿舎に入り生活していました。時代的に女学校では十分に勉強はできません。1年生だった高橋さんは飛行場に行って、掃除や鉄屑を集めて分別、2-3年生の先輩は軍隊に行って手伝いをしていました。小雨でも関係なく働き、大雨の時のみ教室で勉強ができました。しかし、女学校に通えたのも8月までのわずか4ヶ月のみでした。