国賊だったお人形
青い目をしたお人形は
アメリカ生まれのセルロイド
日本の港に着いた時
いっぱい涙を浮かべてた
私は言葉がわからない
迷子になったら なんとしょう
写真は母が女学生だった頃のものだ。
一番右が母。(大正5年生まれ)
青い目の人形は、1927年に、アメリカ合衆国から日本に両国間の親善を目的として贈られたお人形の事。
このお人形も戦争の時は、国賊だった。
母は、墨田区太平町で3月の東京大空襲にあった。逃げて逃げて江戸川を渡ったという。
火の中を逃げられず、川に飛び込んだ人もいると言う。焼け野原になった東京に戻って来た時の川には、死体が浮き毎日のように引き上げたそうだ。しかし、翌日の満ち潮になるとまた、死体が上がって来たと言う。
焼け野原には、仕切りもなく自分の家の跡地には知らない人が店を出していたと言う。
小岩にも家があったので、年老いた母(真愛の祖母)と暮らし始めたそうだ。
弱って来た母親に「白いご飯」を食べさせたかった母は、着物を数枚お腹に巻いて「妊婦」になって「ヤミ米」を買いに行ったと言う。
お米を手に入れ、お腹に巻いて汽車に乗って帰って来た。東京に入った時、空襲警報が鳴った。
汽車は止まり、母と同じ座席にいた男の人が
「隠れろ!」と母をかばってくれて、汽車の座席を窓に押し当てた時には、機関銃の音と共に座席も落ちて来た。
母の目には、青い目の兵士が機関銃操作をしているのが見えたと言う。
静かになった車両の中で生き残ったのは母だけだったと言う。
男の人の首は飛ばされていたと。
妊婦だと思ってかばってくれたその男の人がいなかったら、私は産まれていない。
その年の8月15日に
愚かな戦いが終わる。
母は、「兄さん」と呼ぶ初恋の人を戦争で亡くしている。
終戦の年の夏。
特攻隊だったのだ。
夏の暑い夜。
女世帯なので雨戸を閉めて寝ていると、
玄関から、兄さんが帰ってきた。
「こんなに遅くどうしたの」
と聞くと
「しばらく遠くに行かなくてはいけないから」
と言うので、
「お茶漬けでも…。」
と言ったが
「ヨッちゃんの好きなチョコレート」
と言って手渡され、兄さんは、雨戸を通り抜けるように庭に出て行ったと言う。
雨戸を開けて追いかけると消えた。
その直後、電報が届いた。
「〇〇死ス」
「でもね。チョコレートちゃんとあったの
よ。」
と母は話してくれた。
戦争中に何万という悲しい話があったのだろう。そんな悲しい思いの上に築いて来た平和だ
75年も経って、
平和である事の幸せを忘れている。
イージス アショアの設置は、見送られたが、弾道ミサイルによる脅威が次第に増大したことに対処するために開発された兵器だ。
木更津航空自衛隊からは、オスプレイが飛び立っている。
政治家は経済を回したいという。
一番の経済復興は、戦争があれば儲かると聞く。昔、日本が武器商人だったように。
ニュースは、コロナ禍と熱中症の話をするが、今、日本はどんな状況にいるのだろうか?
また、終戦記念日が来るが、
何やら情報統制されているようで不安。
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります