春のお彼岸 牡丹雪
3回目の春のお彼岸(春分の日)がやって来た。ぼたもち(牡丹餅)を用意する。
そして、決まって思い出す。
お酒を飲むのに、甘いぼた餅やお萩も食べてくれた厚洋さんの事を。
餡子論争は「粒あん派」で、真愛と同志。
母も兄も「晒しあん派」だった思い出も…。
秋と春の違いで「お彼岸のあんころ餅」の名前が違う。雑学博士の蘊蓄付きの楽しい思い出だ。
ところが、今日買って来た「ぼた餅)には、「おはぎ」と名前が貼ってあった。(最近はどちらも使い決まりは無くなったようだ。)
しかし、真愛は、納得できないまま「頂きます!」をした。
勿論、お供えのお下がりを。
ぼた餅は、もち米とうるち米を混ぜたもの(もち米だけの事もある)を蒸す。あるいは炊き、米粒が残る程度に軽く搗いて丸めたもに、
餡をつけた食べ物である。
米を半分潰すことから「はんごろし」と呼ばれることもある。
「おはぎ」(御萩)も全く作り方は同じだ。
なのに「呼び名」は、春と秋で違うのは、それぞれのお彼岸ごろに咲く花が違うからというのが、真愛の最愛の師匠・厚洋さんの説である。
どちらも、お彼岸の供物として食される。
夏は「夜船(よふね)」、冬は「北窓(きたまど)」とも言う。
言葉遊びから生まれた名で、おはぎ(ぼたもち)は、杵を使って餅を搗かず作れるため音がせず、いつ搗いたかわからないことから「搗き知らず」。
夜は暗くて船がいつ着いたかわからないことから「着き知らず」
それを「搗き知らず」と掛けて「夜船」。
北向きの窓からは月が見えないことから
「月知らず」
それを「搗き知らず」と掛けて「北窓」となったとも言う。
言葉遊びの好きな厚洋さんだったので、沢山たくさん語りたかったのだろう。
真愛は、やっぱり春のお彼岸は、「ぼた餅」として食べたい。
秋は「おはぎ」。
少し小さめの「餡子を纏ったお萩」を食べたい。
ところで、「牡丹」の花は、様々なことにその様子の美しさを表現されている。
先日。ド嵌りしたドラマ「麗姫と始皇帝」でも高貴な花として何度も劇中を飾った。
中国で牡丹は「あまねく花を看るも、此の花に勝るものなし」と絶賛され、
別称は「花王」「花神」「富貴花」。
多くの詩人が詩に詠んでいるので、牡丹愛玩の歴史は唐の時代にまで遡る。
詩人李白は、玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスを牡丹に喩え、白楽天も「買花」や「牡丹芳」で長安の人々が牡丹の開花を待ちわび、都をあげて牡丹花の話題に熱中したことを書き残している。
また、「牡丹濃艶人心を乱し、一国狂うが如く金を惜しまず」と唐詩に歌われたほど、都を離れても人人は牡丹の名花を探し求めることに情熱と大金を惜しまなかったと言う。
しかし、残念なことに、真愛の好きな「白い牡丹」は、好まなかったようだ。
「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」
と言う言葉を聞いた事があると思うが、「女性の美しい立ち振る舞いや容姿を、花にたとえて表現する言葉」だ。
佳人の美しさを表現しているが、特に女性の美しい仕草や話し方など(女性の魅力が輝く所作においての「美しさ」)を感じた時に使わる。
由来は「純粋な花の美しさ」
由来は言葉に登場する3つの花の魅力。
それぞれの花の特徴を思い出してもらうとよく分かる。
芍薬(しゃくやく):
ボタン科の多年草で、細くスラリと伸びる茎
が特徴。ースラリー
牡丹:(ぼたん)
ボタン科の落葉小低木。
ー低いので座っているー
枝分かれをした先に豪華な花をつける。
百合(ゆり):
甘い香りをそよ風にのせて、
優雅に揺れる姿が美しい。
これらの花の特徴から「まるで、女性の美しい立ち振る舞いは芍薬のよう、女性が優雅に座っている姿は牡丹のよう、女性が軽やかに歩く姿は風に揺れる百合のよう」というたとえ。
また、開花の時期が、5月は牡丹(座る)、6月は芍薬(立つ)、7月は百合(歩く)というように、女性の一連の動作が見事に表現されているからとも言われる。
牡丹は雪の名前にも付けられた。真愛は、「雪」の名前に付けられた
「牡丹雪」が好きだ。
春になり寒さが緩んだ頃に、ひらひらと花弁のように舞い降りる、夜の牡丹雪。
雪なのにホトホトッと音がするような大きな雪のひとひらで、直ぐ積もるのに、直ぐ溶けてしまう。
我が家の春に降る雪は、
「なごり雪」で「牡丹雪」。
雪うさぎを作っても夜には月に帰ってしまう。
そんな「牡丹雪」が好きだ。
食欲・言葉のロマンを両方語っても不協和音のままだが、こんな馬鹿な話を楽しんでいた二人の時間が懐かしい。
今日は、お彼岸の中日。
また、美樹ちゃんの所でヘアスタイルを変えて来ました。
心新たに「貴方の思いを引き継ぐこと」を使いに来ました。
貴方の眠る宙の映る墓石の前で、
摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄
ー南無洋徳望真信士ー
3回目の春のお彼岸が来ました。
彼岸は、煩悩を脱した悟りの境地のこと。
煩悩は、心身を悩ませ、乱し、煩わせ、汚す悟りの境地を妨げるあらゆる精神作用のこと。
三途の川をはさんで、真愛が住んでいる世界を此岸、そして向こう側厚洋さんのいる仏様の世界を彼岸という。
また、お彼岸という言葉には、数々の煩悩に打ち勝ち、悟りの境地に達することができるよう心の修行をすることも含まれているらしい。
普段から仏道の修行を行っていない人も、彼岸の期間になると、煩悩を払うために西に沈む太陽に祈りを捧げた。通常、春分の日と秋分の日の中日は、太陽が真東から出て真西に沈むので、この日に沈む太陽を拝むことは西にある極楽浄土に向かって拝むことになるのだ。
般若心経の「般若波羅蜜多」という部分がある。この「波羅蜜多」が「パーラミター」で、悟りの境地に達すること、またはそのために積むべき修行という意味を持つ言葉だと言う。
noteに「般若心経」の事を書いたが未だに分からない。
ただ、煩悩を脱し悟りの境地に入り人のために生きたいものだ。
肩にひとひら、
牡丹の花びらが
はらりと舞い降りた。
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります