にゃんこの日 般にゃ心経
2022,2,22。
今日は、西暦から数えると「にゃん」が6個も付くにゃんこの日だ。
まあ、「不撓夫婦冨夫婦」と読んで、
「どんな困難があっても負けない夫婦は、必ずや
富を得るなり。」と書き換えることもできる。
しかし、一般的には「猫の日」言われている。
「ネコの日(猫の日)」が定められたのは1987
年。 ネコ好きの文化人や学者がつくった
「猫の日実行委員会」がペットフード協会と協力
して、2月22日を「猫の日」と定めたらしい。
猫と一緒に暮らせる幸せに感謝する日という意
味が込められているというのは、素敵な考えだと思う。
「ねぇ。一般的なことじゃにゃくて…。
別の角度から書いてにゃん。」
とチャーちゃんからの要望があり、ノートからnoteに向い直して書いているが、
「あんたと同じぐらいの脳みそなので、
浮かびません。」
と言い返したい。
朝のテレビ番組では、あの賢い林修先生も、
「猫の日です。にゃんにゃん…。」
なんて言った後、
「猫に小判」「猫に鰹節」なんて色々出した後、「猫に鰹節とは、どんな意味でしょう?」
と問題を出していた。
何年も同じ番組をやっていると、苦しくなるのだなあと思いながら、ブツブツ呟いた回答は、正解だった。
しかし、この話題では面白くない。
チャーちゃんを抱いた厚洋さんにも馬鹿にされそうだ。
我が家の庭に置かれたニャンコの像だ。
チャーちゃんが亡くなってから購入した。
猫が祈りを捧げているのは不自然な気もしたが、駐車場の直ぐ近くに置いてある。
そして、真愛の行き帰りの安全を祈ってくれている気がする。
チャーちゃんが元気だった頃、真愛が帰って来ると玄関まで迎えに来て待っていた事も、出かける時にちょっと顔を上げて
「はい。いっておいでにゃん。
気をつけてにゃん。」
という顔をしてくれた事も思い出すので、墓石代わりにするつもりが、駐車場の横の花壇の中にある。
まさに、このにゃんこちゃんの姿だ。
チャーちゃんは、水道のお水をキャッチする時にはこのポーズをしたが、何もないところでは…
やっていた!
虫を捕まえる時だ。
ニャンコというのは、両掌(前足の肉球)を合わせるのだ。
祈りにも、感謝にも、謝罪にも見える。
可愛がってくれた厚洋さんが逝った時は、毎日のように祭壇の前にいた。
猫は感謝と祈りを捧げるのだ。
そう思いながら、朝の掃除洗濯を済ませて、お仏壇にご挨拶をしていて気がついた。
【般若心経」の中には、「にゃあ!」が登場するが、「ワン!」はない。
【摩訶般若波羅蜜多心経】に始まり、何度も何度も繰り返される【にゃ】である。
【般若】は、古代インドの言葉であるサンスクリ
ット語(梵語)の「プラジュニャー」やパーリ
語の「パンニャー」に由来している仏教用語。
【ニャー】なのだ。
意味は「仏の智慧」のこと。
仏の智慧とはさまざまな修業を積み、その結果
得られる悟りである。
智慧は世の中の真理を知ることを指す言葉で、
時代によって変化しない普遍的なもののこと。
仏教では、生まれながらに仏の智慧を授かって生まれてくるとされているが、生きていく上で生じる煩悩によって大切な智慧を見失ってしまうのだ。
無垢な心が持つ祈りと感謝の心を俗世に汚されて己の事しか考えなくなる。
仏の智慧とは学問のように学ぶものではなく、自問自答して気づく己の愚かさかも知れない。
【般にゃあ】である。
ごちゃごちゃと書いてきたが、これを書いたのも、【欲】である。
毎日note公開を続けているし、2022年2月22日は今日しかないし、次に7つ2がつくのは、200年後で生きていない。
今日しかやれない。
今日書きたい。
今日公開したい。
欲の塊である真愛が捻り出した話である。
如来や菩薩は優しい表情を浮かべ、目も見開いてもなく閉じてもいない、半眼(はんがん)が多く見られる。
如来の目は三昧(さんまい)といって心を静めて乱れず集中している状態を表すので、禅定の相だという。
観音菩薩は、優しい慈悲を表した表情をしている。それは観音経という経典の中に慈眼視衆生(じげんししゅじょう)とあるように慈悲の眼で衆生を見つめているからだという。
「猫は可愛い❣️」
どんな嫌なことがあっても、癒してくれる。
きっと、「慈悲の眼」で真愛を見つめてくれていたのだと思う。
今日は、【般若心経】を読みながら、己と向き合い、良い生き方を考える日である。
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります