子育てパニック日本語了解能力
さて、もうすぐ夏休み、丸半年が終わってしまった。
学校に勤務していた頃は、半年が終わることより、1学期が終わりこの4ヶ月で子どもたちにしっかりとした4ヶ月分の知恵をつけて来たかと焦ったものだ。
そして、同士の厚洋さんとも
「学習の土台は、国語力だよね。
どうやったら、子どもたちが意欲的に
国語の力をつけ、学びたいための情報(本)
を自力で読めるようにできるんだろう。」
と悩んだものだ。
「勉強が出来るから本を読むのではない。」
「本をよく読んできたから、
勉強が出来るようになるのだ。」
この考え方を教育環境設定コンサルタントの松永暢史が書いているのを読んだ。
(あら?
やっぱり同じ事を考える方がいるのね。
貴方と一緒に考えた事は、なかなか良いこと
だったのね。)
我々は日本人なので、普段は日本語で会話をしている。日常的に日本語で読み書きをし、頭の中でも日本語で考えている。
学習の殆どは日本語で行われる。
説明も教科書も日本語である。
大学に行っても、就職試験もその多くが日本語で行われる。
要するに日本にいる限りは殆どが、日本語を用いている。
(最近では、外資系の企業なんかは殆どが英語で情報処理をするらしい。日本人でも日本語が下手な人がいる。良いんだか、悪いんだか分からない世の中になった。)
一般的に日本にいる日本人?ならば、ものごとを理解し、表現出来るかどうかは、日本語力にかかっている。
要するに日本語が学力の土台となる。
「日本語了解能力」が大事と言うことになる。
で、この能力が身につく1番の近道が読書なのだ。
以前、noteで日本国語学会の常任理事の首藤久義氏の考えを書いたが、先生の考え方と同じで、
「言葉とは生きているもの。
どんなに漢字の書き取りをし、
文法や熟語を習っても、
それらを実際の文章の中でどう使うのか、
どう使いこなせばいいのかは、
多分感覚的なもの。
その能力を磨くには、
生きた言葉が詰まっているもの「本」
に親しむしかないのだ。」
素晴らしい作家さんや専門家のインタビュー写真は、殆どが本棚の前で座っているものが多い。
(厚洋さんの書斎にもびっしりの本が並んで
いる。彼も原稿料をもらう作家だった。
彼が亡くなっても真愛は本を捨てられない。
いつか〇〇大賞なんか貰えた時、
あの膨大な梅原猛の全集の前で撮ってもらい
たいと思っている。笑笑!)
何しろ、日本語了解能力をつけるためには
本だ。読書だ!
さて、生まれてすぐ話せる赤ちゃんがいない事からも分かるように、日本語了解能力は後天的ね要素が大きい。
だからこそ、小さい時からできるだけ本に親しんでほしいものだ。
自慢の我が息子も厚洋さんと真愛がたくさんの本を読み聞かせた。
反抗期にはあまり話さなかったが、巣立って一人暮らしになって帰って来た時に、厚洋さんと話すのは「本」の話だった。
(真愛とは漫画本の思考が似ている。
漫画も読書だと思っている真愛である。)
読み聞かせの開始は早ければ早いほど良いようだ。
読み聞かせによって子どもの脳は豊富な刺激が与えられる。
それは「日本語の音」に慣れていくのだ。
更に凄いことに、一音一音はっきり読むと、「て,に,を、は」といった助助詞を意識するようになるという。
それは文章構造が自然と理解できるようになるからだという。
native Japaneseになるのだ。
絵本の読み聞かせは「音を聞かせる」ものだという。
読み聞かせをしていて
「この本読んで!」
と持ってくるようになったら「しめた!」ものである。
本があるのが当たり前な環境にすることなのである。
お馬鹿な母親であったが、貧しかった真愛は本をこよなく愛したし、図書館の本を全て読破しようと考えたこともあった。
また、厚洋さんのお陰でたくさんの本の面白さも知り、沢山の絵本の素晴らしさも読み聞かせの効果も知った。
我が家には、常に大量の本があり多様な本の世界を味わう事ができた。
結構な教育環境を整えていたのだと思う。
「カリブの海の底に眠っている宝物よりも、
本には多くの宝物が眠っている」
ウォルト・ディズニーがくれた
夢と勇気の言葉より
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります