彼の本棚
先週、カミユを読み読後感想を書いたが、もう、「コロナ禍と同じだった。」としか言えないほど忘れている。
顰蹙をかうと思うが、夫が大腸癌で身体中に転移し、肺気腫も患っていたので、肺ペスト患者が亡くなる時の様子が「肺」を患った方の苦しみ・それを看取らなければならない者の苦しみが我が事のように思われた。
極限状態の愛別離苦の悲しみは、亡くした愛しい人と重なり合って泣きながら読んだ。そして、「その中でも、私はまだ幸せ。」と思い知らされた。その記憶は死ぬまで忘れないだろう。
要するに、真愛の弦に共鳴した部分しか覚えていないのだ。「カミユのペスト」には、サイドラインもドッグイヤーも山ほど残っているのに…。
読書というのは、人一人が一生で経験しきれない様々な擬似体験が出来るということだ。
だから、似たような経験値を持てば、読者が「自分=主人公」になってその世界で生き生きと活躍する。未来に行ったり、過去に行ったり泣いたり笑ったり恋をする。
経験をしていなくても、登場人物に自己投影して楽しむのだと思う。
いま、厚洋さんの本棚から探した
「マンボウ恐妻記」を読んでいる。
それが、実に面白い。
厚洋さんが小さい頃から、北杜夫の本を好んで読んでいたことや彼の学級通信の名前が「マンボウ」であったことから、この本を手にした。
読書のスタートなんてそんなものだ。
北杜夫さん自体が躁鬱気質だったことは、厚洋さんから聞いていたし、奥様が恐妻であることも聞いていた。
しかし、厚洋さんが笑いながら言うので、真愛を揶揄って「俺のうちも恐妻。」なんて言いたいんだろうと思っていた。
全文が「女は結婚したら強くなる」「奥さん怖い」で貫かれており、女であっても笑ってしまう。
そして、北杜夫さんの「奥様が大好き。奥様がいないと生きていけない。」の思いも溢れるほど伝わって来て可愛い人だ。
真愛は、厚洋さんがどんな思いで読んだのか想像しながら読んだ。
真愛は、奥様ほど賢くなかったし、強くなかった事。厚洋さんは教師で作家は、片手間だった事。あちらは、お金持ちであった事。
この3つの違いは北杜夫ご夫妻と真愛達とを比べようがないほど違った。
人が一人一人違うのと同じで、夫婦の有り様も千差万別なのである。
北杜夫さんが「紀美子で良かった。」と言う一言が厚洋さんの言葉と重なって切なかった。
「心に灯がつく 人生の話」(講演集)も
面白かった。
厚洋さんの本棚には、毎日読んでも2年以上かかるほどの本がある。
彼が、
「書くためには、たくさん読めよ。」
って言っている気がするし、
「ちゃんと話しただろう?俺の話覚えてる?」
と、笑われている気がした。
今、
亡くなった方の本を読んでる。
読み進めていくうちに、厚洋さんと同じにファンになる。
「会いたい」と思った時。
すでにその人がこの世にいない事の切なさを味わい続けるのが真愛の読書なのかもしれない。(小川洋子さんはご存命。博士の愛した数式は、真愛が厚洋さんに紹介し、「面白い」と言ってもらった本の作者だ。)
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります