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9月9日が来た。

 7日が白露だった。
 そして、今日は「重陽の節句」だ。
 白露は、二十四節気の一つ。
 太陽の黄経が 165°に達した日 (太陽暦の9月8日か9日・今年は7日)に始り,秋分 (9月 23日か 24日) の前日までの約 15日間。が現行暦ではこの期間の第1日目をさすという。この頃は、夜間気温が低下して大気中の水蒸気が露となって草葉につくようになる。
 ところが、白露なんて優しい感じではなく、雨雲レーダーは真っ赤か!台風は2つも発生している。
 「菊の節句」で有るにも関わらず、穏やかな秋の日差しではなく、屋根を撃つ雨の音がCDからのマイルスのトランペットを消し去る。
 この3年間重陽の節句は、真愛にとって尋常でない日だったのに…。
 人は「忘却」という「安定剤」を持っているのだ。
 「悲しみ」「恐怖」「不安」に狂ってしまわないように少しずつ忘れ去って行く。
 3年前の9月9日。
 死の床に臥せっている厚洋さんとの長寿を願い菊の花の酢の物を作った。命がけで愛してくれた彼がずっと傍に居ると思っていた。
 未来を考えなかった幸せな悲しみの日々だった。
 2年前の9月9日。
 滅多に来ない我が街に台風15号が上陸。
 我が家の隣の杉林も風速30mに直撃され、風は4時間近く渦を巻いたまま上空にいたのだろう。
 朝の光が差したときには、屋根は飛び、杉は折れて雨戸に刺さり、杉林の杉は殆どが薙ぎ倒されていた。
 厚洋さんが逝って
 一年が過ぎようとしていた頃。
 抱きつく彼がいない怖さと寂しさで、ニャンコを抱いて泣いて夜明けを待った。
 今は、その時の愛猫も逝ってしまった。

 20日間の断水と停電。
 杉の倒木により寸断されたライフライン。

 沢山の方々の支援を頂き、生きてくることができた。電気がつき、給水タンクを運ばなくて良くなった日に、全ての人に感謝した。
 厚洋さんの貞元の教え子さんが屋根を直してくれて、三島の教え子さんが水を持って来てくれた。真愛の教え子もバナナやポカリを持って来てくれた。
 シャンプーもできない時に美樹ちゃんは無料で被災者にシャンプーをしてあげていた。
(厚洋さんも真愛も教員としてちゃんとやれてたんだと、良い教え子を沢山持ったと感謝した。)
 ご近所さんが毎日、声をかけてくれて、夜の怖さを凌げた。(息子は直ぐに来てくれて、携帯の充電器や食料を入れてくれたが、そばに誰もいない事が不安だった。ご近所さんの優しさが不安を減らしてくれた。)
 厚洋さんの同僚だった方、真愛の同僚だった方が、食料と水を持ってお見舞いに来てくれた。
(遠くから「心配だったの」と奥様に言われた時は、感謝と共に、私がこの立場だったら、厚洋さんと一緒に伺えたのだろうか?という「自分の思いやりのなさ」が情けなかった。)
 給水所や避難所に行くと遠くの他都道府県から支援に来てくれている方の優しさや、地元の中学生が水運びを手伝ってくれた事に感動した。
 街中が優しくなり、人と人の絆が復活した。
「この街も捨てたもんじゃない。」と嬉しく誇らしくなった。
 自分が被災者になって初めて分かった事だった。
 そして、ライフラインが復旧した翌日から、遅まきながら「災害ボランティア」に登録して、お手伝いをするようになった。
「ボランティア」をして感じたのは、真愛と同じで、
「みんなが苦しんでいるのだから私ぐらいはまだいい。まずはあの人から…。」と一歩引いてしまう人と
「貰えるのだから今のうちに全部もらって行く」という他者を思いやらない人の両面を見た。

 9月9日を過ごしたからこそ見ることのできた事であり、真愛の心を大きく変える事であった。

 ボランティアの受付で出会い、活動報告の時に真愛の車の前に止まっていたKei君の車だ。
 神奈川県相模原から来てくれた大工さんだった。
 被災者の名を借り、やってもらうのが当然のように苦情を言う人も見た日だったので、遠くから来てくれている彼が頼もしく素敵な人に思えた。
 1時間ぐらいしか話さなかったけど、本当に素敵な人だった。奥様を愛し、息子を慈しみ、母親を思いやる素敵な男だった。
(厚洋さんに重なりこんな風に思ってくれていたのかなと彼の声を聞いた。)
 彼はその後、房総で一番被害が酷かった鋸南地区に行って活動し続けてくれた。

 真愛は、全ての事から、
「9月9日を忘れないための何かをしたい。」
「厚洋さんや真愛の教え子さん達に感謝したい」
「生き残った真愛を心配してくれる方々に御礼を
 人のために思いやれる素晴らしい街に人に
 感謝をしたいと思って、
「満望忌」を考えた。

 無料で琴と和太鼓のコラボ演奏を。
 避難所で流した「エール」を演奏した
 トランペッターとピアニストに厚洋さんが好き
 だったジャスを。
 防災について神戸の岩本先生と市長さんに
 対談をして貰おうと。
 良かったら「募金」してもらって、
 ー 街に寄付しようと ー

 しかし、去年の9月9日。
「満望忌」はコロナ禍で、無観客でゲネプロだけしかできなかった。
 会場だけは開き、全部キャンセルした。
 来年はコロナ禍も終息すると思っていたので、ゲネプロをする事は、今年のための準備だった。
 今年はできると思って、
          ホールの予約もした。

 今年は、6月に中止を決めた。
 コロナ禍は酷くなっていると思った。
 9月9日。
 その通りになっている。ひょっとすると緊急事態宣言を繰り返し、ウィルスは変異を繰り返し、真愛が死ぬまでマスクをしなければならない世界になっているのかもしれない。

 あんなにも心を動かし、思いを馳せて行動していた「満望忌」を忘れそうだ。

 9月9日になったのに、
 苦しかった事も切なかった事も、
 嬉しかった事も、生きている有り難さも、
 忘れそうになっている事が恐ろしい。
「忘却」という「安定剤」を飲み過ぎてしまったのだろうか。
「サラダ記念日」ではないけれど、毎日、何かの記念日として思い出さないといけないのだと思う。
「あの時はありがとう」
と一人一人には言えないけれど、人への感謝の念はしっかり持ち直したい日だと思った。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります