こんなに生きちゃった!
20日ぶりの晴れ。
お日様がこんなに眩しかったのかと思うほどに、刺すような光の中で「紫陽花の剪定」をした。
noteの「手入れ」にも書いたが、美しく咲いてくれた花々をそのままにしておくと、来年は咲かないのだ。
紫陽花の場合は、剪定をすること。
来年の花芽を確認して切り落としていく作業は、意外と時間がかかる。また、何年も花芽から下を残しておくと株が広がり密集してしまい(コロナに罹る事はないが)花が小さくなる。
今日は、北側の土手の「紫陽花」を剪定した。植えて6年目になるので、株が密になり、枝が垂れ下がって通行の妨げになる。
もったいないが、思い切って株元から切った。来年は咲かないかもしれない。
思い切り切ってしまった。
道路に覆い被さってしまう事も気になったが、それにも増して、「これから歳をとって剪定する体力がなくなっていくだろう。」それならば、今のうちに5年先を考えて切った方が良いと思ったからだ。
若い人はいい。
ペットが死んだ時に、「ペットロス」にならないようにペットを買えばいい。
今後10年は、そのワンちゃんと暮らす事が出来、その子を看取る事ができる。
卒業の記念に「桜」を植えても、
結婚記念に「ミモザ」を植えても良い。
その後30年・40年と手入れができる。
しかし、歳をとると一年先が分からない。
捨て猫を拾って来て、来年死んだら…。
猫の処分に困るだろう。
亡くなった彼の好きだった「ソメイヨシノ」の古木は我が家を壊すほどに大きくなって困っている。
彼が植えた「温州蜜柑」「サクランボ」「甘夏蜜柑」も選定するには脚立に乗らなくては出来なくなった。年寄りが脚立から落ちて骨折なんてよく聞く話だ。
歳をとると気持ちがあっても体力がついていかない。
年寄りに向かって
「あなたにも、まだ未来がある。
今は、人生100年時代だ。」
なんて、無責任に言ってくれるが、やりたい事をやれてこその人生だ。
歳と共に「できる事が少なくなって生きている」のでは、「ただ、息をしてる」であって「生きている」ではないと思った。
歳を取り体力がなくなり、動けなくなるのは当たり前。世の常なのだし、分かっているつもりだ。
庭作りをする人たちは、
「やれる範囲でやりましょうよ。」
って言うが、「愛しい人が愛した庭」は守り続けたい。
だが、愛しい人の愛した庭木は、手入れをしなければどんどん酷くなる。(手入れにはお金が掛かる。)
歳を取ったら悩みが少なくなると思ったら、その歳その年で悩みは生まれてくるものだとも思った。
歳、歳!と書いていたら凄ーく、おばあさんになった気がした。
これからは、高い所に登らなくても良いような植物を育てよう。
一年で完結する野菜や花を育てよう。
分相応の生き方をしなければならない。
分相応の生活って「切ない」と思った。
この時期、北側の土手の草刈りをして
「土手掃除、終わりましたあ。」
と言うと、決まって、
「ご苦労様。素麺できてるよ。
スイカも切った。」
と、厚洋さんが出してくれた。その人がいないから、疲れもどーと溜まる。
真愛の歳になるまで、厚洋さんがやってくれた庭木の手入れ・土手掃除だった。
この歳でやるのは大変な事だったのだなあと思い「有難う」とか「ご苦労様」とかちゃんと言っていたのか不安になった。
人は同じ体験をしないとその苦労は分からないものだ。人の思いに寄り添える真愛でありたかったと後悔した。
こんなに生きるとは思っていなかったので、厚洋さんも真愛も、選定が必要な庭木をたくさん植えた。
先に逝った厚洋さんが、
今日も笑っていってるだろう。
「悪かったな!
木って育つんだよな!
先のこと考えてなかった。
真愛だって歳をとるよなぁ。」
真愛は、
「本当。
こんなに生きるとは思ってなかった。
あなたの大好きな庭は、何とか守ります。
そのために体力づくり。
プールに行って、泳いできます。
今、厚洋さんに出来ること
《真愛を若く保つ事!》 頼むね!」
笑ってないでちゃんと聞いてよね。
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります