婆さんは妖怪
妖怪研究家・作家の多田克己氏は、鬼・河童・天狗が日本三大妖怪であるという。
文化人類学者・民俗学者の小松和彦氏は、日本の中世文学の世界で共有されている宇治の宝蔵伝説を背景として、
「最も恐ろしい妖怪はどれか?」
と中世の人びと(都人)に尋ねたら、
「大江山の酒呑童子」
「玉藻前・白面金毛、九尾の狐!」
「鈴鹿山の大獄丸」
と答えるだろうと述べている。
なんでこんなことを調べたのか。
今夜見た番組で、「日本の妖怪ベスト〇〇」なんていうのをやっていた。
厚洋さんが居れば一緒に見るから、怖ければかれに縋り付けば良い。しかし、一人で見るのはちょっと怖かったので、最初だけ見てやめた。
しかし、「怖いもの見たさ。」という気持ちもあり、途中でその番組に戻ると、懐かしい映像が流れてきた。
(ここで真愛が鬼の頃…。と書けば読者さんは喜ぶのだろうが、真愛がママだった頃に息子と見た映像だ。)
「日本昔ばなし」【鬼婆】
懐かしい優しい声音の市川悦子さんの語りに思わず見入ってしまった。
鬼婆は、美しい女の人を食べるつもりだったのだが、女の人が、死を覚悟して「死にたい死にたい」というものだから、
「そんなに美しいのに…。
一生醜くしてやるー。」
と呟くのだ。
つくづく、女の嫉妬が鬼婆にするんだと思う。
美しい人が突然醜くなった苦しみは想像を絶するのだろう。鬼婆は、心が醜いのだなあと思って見ていた。
鬼婆に羽織を着せられた娘は、醜い老婆になってしまう。
「こんな姿では生きていたくない。」
と何度も「殺してほしい。」と言っても、殺されることなく村に戻されるのだ。
そこで、改めて突きつけられたことがある。
「歳を取るということは醜くなる」ということだ。
歳を取れば外見は絶対に醜くなる。
自分で
「人は外見ではない、内面だ。
内面を美しくしよう」
って一生懸命に自分を納得させようとするが、
年寄り=醜いは「事実」なんだ。
老婆になった娘は、許嫁なら自分の事をわかって助けてくれるかも知れないと尋ねていくが、
「あんな醜い老女は知らない。」
と言われ、絶望の淵に立ち、川に身を投げようとする。
そこはお話。
そこに村一番の貧しい男に声をかけられ助けられる。
そして、男の優しさが悲しい思いを溶かしていき、鬼婆に掛けられた呪いも消していく。
少しずつ少しずつ、娘は美しい姿に戻って男と幸せに暮らしましたとさ!
要するに、やっぱり外見より心だって事。
ただ、真愛自身が、老女になって見たので、
「一般的に老女は醜い。」は、事実なのだし、現実であることを痛感したのだ。
その番組では、「鬼婆」から、怖い女性妖怪のベスト〇〇を続けてやっていた。
No.5 ろくろっ首
No.4 濡れ女
No.3 二口女
No.2 隙間女
No.1 雪女
なんだか、妖怪の女性版もみんな元々は、美しい人が多い。元々は人だったのに「悲しみ」や「怨み」で妖怪になってしまうのだ。
心が病んでしまったのだ。
ならば、妖怪は現代でも沢山いるではないか、
外見は美しく若々しい人なのに女も男も関係なく「人の命を食い尽くす妖怪」
「小さな子まで食い殺す妖怪」
「己の親すら殺してしまう妖怪」
「嫉み」「嫉み」「恨み」「悲しみ」「孤独」
現代社会は、「妖怪」を生み出しているとしか思えなくなった。
こうやって書いていたら、「鬼滅の刃」の竈門炭治郎君が泣きながら宣う言葉を思い出した。
「鬼だって、元々は人だったのに…。」
そして、彼の涙の思いを知った鬼が、人になって、優しい思いに包まれて死んで逝くのだ。
真愛は、その優しいシーンが好きであの映画を見る。(noteにワンシーンで公開した。)
で、三代妖怪を探してみたのだ。
【大江山の酒呑童子】
真愛は、小さい頃に母から話を聞いたことがある。よく歌舞伎で演じられていたと聞いたことがある。
大江山の鬼王酒呑童子を退治した源頼光と藤原保昌一行は、首を台の上に載せて都に凱旋した。
帝をはじめ摂政や関白が酒呑童子の首を叡覧したのち宇治の平等院の宝蔵に納められる。
源頼光は東夷大将軍に、保昌は西夷大将軍に任命された。
真愛が母から聞いた話では、頼光が鬼から切り取った腕を宝のように飾って置いたら、鬼が腕を取りに来たと言う話だった。
最終的に鬼は退治されるのだが「腕を返せ」って言う言う母の語りが怖かったのを覚えている。
【那須野の妖狐・玉藻前】
那須野原におもむいた上総介と三浦介は妖狐(玉藻前)を退治した。
遺骸は京に運ばれて院が叡覧したのちうつぼ舟に乗せて流し捨てられた。
多くの伝本では酒呑童子と同様に宇治の平等院の宝蔵に納められたと記している。
遺骸からは王権のしるしともいうべき
「仏舎利の入った黄金の壷」
「夜を昼のごとく明るくする白い球」
「白と赤の針」が出たという。
室町時代から近世にかけての絵巻や絵本の玉藻前説話を描いた妖狐譚はここで終り。
真愛の母から聞いた話は、九尾の狐は最後には、殺生石に化けて「近づいたものは今でも殺される。狐払いをするための安倍一族の青年と恋に落ち、子を宿して逃げ、生まれたのが安倍晴明なんて話をしていた。
我が母の空想力が私に遺伝していないのが悲しい。
【鈴鹿山の大嶽丸】
鈴鹿山の大嶽丸は俊宗の投げた剣によって首を打ち落とされた。
首は都に運ばれて帝が叡覧し、俊宗は伊賀国を賜って鈴鹿御前と結婚した。
大嶽丸は再び強力な鬼として日本へと戻って霧山が岳に立て籠るが、再び俊宗に切り落とされ、京の王権の強大さを誇る宝とするにふさわしいものとし宇治の宝蔵に納められることになったという。
鈴鹿山は追い剥ぎが多かったので、鬼と言われたのだろうというのが母の話。
更に、都の外には外国から流れてきた人もいただろう。
鬼が血を飲んだのは、ワインを飲み。
鬼が赤いチリチリ頭なのも、
体が大きいのも外人さんなら納得できる。
日本人の島国根性で、外人さんを認めなかったから「異形のもの」って、「鬼」って言ったのだと思うというのは、我が母の説。
厚洋さんも真愛もその説には、大いに納得してしまった。
つまり、自分が理解できない不思議なものごとが起きた時、それを妖怪や鬼の仕業にする事でなんとか理解しようとしてきたのだろう。
無知のなせる差別と偏見である。
特に妖怪がよく現れるのは、山や海などの水辺。
自然と関わりながら暮らす中で、自然の不思議な現象や強大な力に畏怖の念を抱いた心が、妖怪を出現させたという。
「お米一粒にも七人の神様がいる」
日本人は古くからものや自然にも魂や神が宿るという考え方が浸透している。
妖怪は、そういった日本人のアニミズム的考え方や思想に深く関わっていると学者様はおっしゃる。
話は戻るが、昔話の妖怪はみんな「大事なこと」を聞き手に教えてくれる。
いや、妖怪だけではなく、「語り手」が「聞き手」に伝えたい「大切な生き方」を何かに託して語るからなのだと思う。昔話は良い。
「雪女」
言ってはいけない約束を破ったので、去ってしまったお雪。
「鶴の恩返し」
見てはいけないと言われたのに、約束を破ったので、飛び去って行ったおつう。
聞いてはいけないと言われていて聞いた事。
触ってはいけないと言われていて触った時。
食べてはいけないと言われていたが、食べてしまった母は…。
食べてはいけないと言われていたのに、林檎を盗んで食べたアダムとイブは、天界から追放された。「我らがご先祖様らしい⁈」
五感を通しての好奇心や欲求は満たされれば喜びであるが、不幸への誘いでもある。
その好奇心・快楽に溺れると「鬼」になるのだ。誰もが持っていて、誰もがそれを抑える力も持っている「心」。
なんだか「生きること」全てが哲学のような気がして来た。
どう生きたら良いのか。
どう生きるべきか。
真愛は、偉そうな事は書けないが、「妖怪」「異形のもの」について考えられただけでも良かったと思った。
追伸。
俗物に戻るが、やっぱり「老い」=「醜い」
が気になる。
妖怪の名前の中に、ジジイ・ババアが多いのだ。
子泣きじじい。
砂かけばばあ。
性差別ではないが、年齢差別だ。
「外見より内面を磨け」
「年齢ではない徳を積め」
というならば、子泣き男とか、砂かけ女・砂かけ娘・・・・・・!
やっぱり合わない。
昔の差別の中で作られた悲しい話であるのだから、あるがままを受け入れて、正しい認識をすべきである。
「老い」=「生」=「あるがまま」
それを他者が「醜い」と認識しても仕方がない
その生き方を「醜い」と認識されないように、
今を生きなければならないと思う。
俗人はそれでも、保湿クリームをたっぷりと塗ることにした。😩!
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります