子育てパニック 理解
🎶金魚が 池の中で、
とっても寒そにしてたので、
僕は熱い御湯を
たくさん入れてあげました❣️
金魚は 嬉しそうに
お腹を上にして寝ました〜🎶
厚洋さんがギター片手に歌ってくれた「あのねのね」というフォークグループの歌だ。
思いやりを持って、相手を理解したつもりになり、我が幸せの基準で「御湯」をたくさん入れてあげたら、喜んで昇天した(殺してしまった。)話である。
気持ち悪いと思われるかもしれないが、50年近く前の真愛は、ブラックユーモアに感動し大笑いをしたものだ。
この歌を教えて貰った真愛は、クラスの子どもに歌って聞かせると、アンコールの嵐だった。
しかし、この年になって、この歌は精神科医のアドラーの【理解】とは『共感・同一視』と『感情移入』の違いを知っていて、この歌を歌って真愛に知らせてくれていたのかもしれない。厚洋さんって、児童心理学を専攻しただけあって凄かったんだなあと理解したのだ。
(真愛、御得意の思い込みである。笑笑!)
アドラーは、子どもをより良く理解するためには、「子どもに共感し、子どもと自分を同一視すること」が最善の方法であるといっている。(岸見先生の生活の哲学から)
この「共感」や「同一視」とはどんなことを言うのだろうか。
分かりやすいのは、一ヶ月前の真愛の三絃の発表を聴きにきてくれた人が、真愛の緊張と同じように緊張して演奏を聴き、ハラハラ・ドキドキ。
「いつ撥が止まってしまうのではないか。」
と我が事のように感じてくれたことだ。
別の例えなら、
多くの聴衆を前に演説していた人が、話の途中で突然言葉が出なくなってしまったとき、それを聴いている人は、自分も恥ずかしい目にあったかのように感じる。
自分の相手を「同一視」する。
これが相手を理解する上でとても大事なことであると言う。
演劇を見る時には、演じている役に
本を読んでいる時には登場人物に共感する。
他者を理解する時にも、小説を読む時と同じような共感ができなければならないという。
相手を正しく理解するためには、自分の見方を傍に置き、自分を相手の立場に置いて相手と一体化する必要がある。
これに対して、自分の立場からしか相手を見られないと「感情移入」になってしまう。
自他の区別がなくなるのは同じなのだが
「感情移入」は、自分を相手の立場に置くのではなく、相手を自分の立場に置いているからである。
僕は、金魚に乗り移って
「この寒い中、池の水は冷たいだろう。
お風呂に入ってほっこりしたら
気持ちよくなるだろうなぁ!」
と熱い御湯をたっぷりと入れてあげるのだ。
自分がこう感じるのだから、相手もきっと自分と同じように感じてるに違いないと思ってしまうのだ。まさに、真愛の思い込みである。
この思い込みで、何度も厚洋さんに迷惑をかけた。
自分の立場からしか相手の感じ方、考え方は理解できないというのは本当だが、誰もが自分と同じように感じ、考えている思うのは「理解」ではなく「思い込み」である。
今回読んだ岸見先生の話で、目から鱗だったのは、
「他者を理解するというのは、他者が自分の理解を超えている事を知る事である。」
これを認めることが、他者を理解する出発点あり、親子に限らず、他者は必ず自分の理解を超える。
この人のことはよく理解していると思っているとしたら、本当は理解していないのである。
(これは厚洋さんがメモ日記に真愛の事を書い
てくれていたことからと分かる。
何十年も一緒にいながら、分からなかった。
コイツは何でも頑張ってやる奴なんだ。)
厚洋さんが本当に認めてくれていた事が分かる一文であった。
病に倒れる前に、この一文に触れる事ができたら真愛の心の有り様も「理解」されているという心の安定が得られたと思う。
子どもの話に戻すが、子どもが何らかの形で親の意に合わない言動をし始めた時、子どもを理解できない親は、子どもを自分の「理想」のうちで生かそうとする。
自分の理想に合わせた理解をし、都合の良い考えに落ち着いてしまうのだ。
子どもと親とは、別人格として生きること。親がたとえ理解できないことを受け入れられないとしても、親の期待を満たそうと思わない事が「自立」する事なのだ。
親からすれば、子どもがもはや自分の理想通りに生きるのではなく、自分の元に留まることはないと知ることで、親が子どもから「自立」するのだ。
このことが、ありのままの子どもを認めることになる。「理解」である。
この「理解」については、あらゆる関係に当てはまるという。
他者を「理解」するために、二つのことを挙げている。
⓵言葉を交わすこと。
⓶他者を気遣うこと。
言葉を少しでも交わせば、相手が自分の理想とは違う事がわかる。相手をありのままに見ることである。「理解」できなくても、関わっていくことはできる。
(真愛と厚洋さんの出会いはこれだった。
いつしか夫婦・両親と姿を変え、分かった
つもりになって話さなくなった。
しかし、病に罹って、恋をしている時の
ように沢山話し合った。
話し合えば話し合うだけ、真愛を理解して
くれ、厚洋さんを理解できた気がする。
その時間があったから、今でも、
彼が大好きでいられるのだ。)
他者を気遣うことは、ずっとしていたことだと思う。いや、寡黙な厚洋さんが常に、真愛の母や真愛を気遣ってくれた。
だから、真愛も彼を気遣った。
「大丈夫!」と言いながら、真愛を気遣い、
(俺が入院したら真愛が大変になったしまう)と入院を嫌った。
お互いがお互いを気遣った。病床で沢山の本音を話し合った時に分かったことは、大好きだからこそすれ違ってしまったこと。
「もっと、もっと話せばよかったな!」
と厚洋さんは笑い、お互いがお互いの想い
『誰よりもあなたが好き!』
を認め合う事ができた。
ひょっとしたら、人は一生「他者を理解する」ことはできないかもしれない。
本人ではないのだから、しかし、解ろうと努力することは大事なことであり、それは独りよがりであってはならないことたのだ。
他者を理解する上で、言葉で確認した結果、自分の共感が常に当たっていらわけではない。
しかし、共感が当たらないことを知ることも大事なことである。
他者が「自立」てしいることを「ありのままに認められている」ことであるからだ。
ー 自分がなぜ今生きているのか ー
それすらも理解できないのに、他者の理解なんて本当に難しいことだ。
それを「理解した」と思うことは、親としても、女房としてもやめたかったことである。
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります