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 芽が出る頃になると必ず驚かされる。
「えっ?こんな所に芽を出したの?」ってびっくりするのだ。
 今日は、ニャンコの置物が倒された。
 先日の強風でも飛ばされず、倒されなかったのに、たった1cmの水仙の芽3本に倒されたのだ。

 水仙の芽を避けるようにニャンコの置物を置き直した。
「芽」は、植物を表す「艹(くさかんむり)」と、動物の歯を表す「牙」を組み合わせてでき、グッと先端を突き出す様子と「牙」がもつ力強い印象を重ねてこの字が生まれたと言われている。
 白川静字抄では、
音(ガ)
訓(め・きざす)
【解説】
形声。
もとの字は艹に牙。音はガ。
牙は獣の牙で、強くて鋭く曲がった形をしている。草や木の芽も、そのような力を含んで生えてくるので、草かんむりをつけて芽といい、
「め、芽ぐむ、きざす」の意味に用いる。

 流石に白川静先生だ。
 訓読みの(兆す・きざす)が加えられていて、「芽」を(きざす)と読むことが嬉しかった。
 草木が芽を出したり、芽吹き・芽生えたりする冬は、春の兆しを感じる。
 何かが起きそうな気配があり、冬の中であっても「へこたれないで頑張ってる」芽に感動する。
「芽」が兆しなのだ。
「恋の予感」とか「恋の兆し)とか、ワクワク、ドキドキする。
「兆す」が、とがって芽生えるものが現れ出る意の「牙 (き) 差す」からとも、また「気差す」の意からともいう。
 「芽が出る」って、隠れていた才能が発揮され、世に認められる事。
 なんかプラス思考の言葉と思った。
 しかし、「芽を摘む」なんて残酷な仕打ちもある。
 こう書いているうちに、35年前に詩の創作指導をしたことを思い出した。
「〜のようだ。」という直喩表現と「ようだ」を使わず「〜だ。」という暗喩を指導した後、教室を飛び出して、見たものを暗喩・直喩で表現する遊びのような学習だった。
 地域の国語の先生方が集まる研究会にも関わらず、子どもたちは楽しく過ごしてくれた。
 まず、「つかみ」で、自虐ネタを使ったのが良かった。
「真愛先生は、鬼のようだ。」→直喩。
「真愛先生は、鬼だ。」→暗喩。
 子どもたちの納得した顔は、理解度の高さを評価された。
 どんなことであれ、実体験に勝るものはない。
 その後、プランターを見せた。

 チューリップの芽である。

「可愛い」
「チューリップだ。」
と言うので、
「可愛い、という感情は素敵だ。
 でも、チューリップと分かってしまうと、
 そうか。チューリップなんだ。と思ってしまい
 想像がそこで止まってしまう。
 〜ようだ。と想像できなくなってしまい易いの
 で、
 今日は、そのものの名前を知っていても、
 声に出さないで、じっと見つめて、
 そこから想像できることをメモってみよう。」
 一度、チューリップと分かってしまうと、なかなか想像は膨らまないのだが、そこは「真愛先生は鬼だ。」がすぐ理解できる子ども達だった。
 予想通り

「耳に見える。兎の耳だよ。」
「本当だ。耳だ。」
「凄いね。なんて素敵な比喩だろう。
 じゃ。何が聞こえる?」
「春が来るよって声」
「春の足音。」
「凄い、凄い!春の足音なんて、
 すでに、二行詩!です。」

 ー チューリップの芽 ー
 兎の耳だ
 春の足音が聞こえたね

と板書をした。
 ここまでは最高だったが、教室から飛び出したら、みんな楽しく遊んでくれちゃった。
 しかし、単元の終わりには、良いクラス詩集が出来あがった。
 子ども達は「工藤直子さん」になった。
 草や木が、大地が、空が、みんな命あるものに変化した。
 子どもたちの持っている「芽」を摘まないで済んだようだ。
 退職して何年にもなるが、それでも「芽」に反応できたことが、なんだか「まだ、若いぞ!」って思えた。

 雪に覆われた大地からも、
 突き破って食いちぎって伸びる
 こんな苦しみ
 こんな悲しみ
 「待ってろよ!」
 何かが、起ころうとしている
 全てをひっくり返す気配がある。
 鬱々とした感情から
    未来が生まれる兆しが見える

 「芽」いい響きだ。


ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります