子育てパニック 懲戒権
民法が定める子への懲戒権が論議されている。児童虐待の口実となることから親が子どもを戒められる民法の「懲戒権」を削除したり、「体罰を加えてはならない」と明記するなどの案が示された。
ニュースで、虐待や育児放棄による子どもの「死」を知らされた時には、「親」の気持ちがわからなくなる。
厚洋さんは、人を差別する人ではなかったが、そんな時だけは、本気で「女」を罵倒した。
「母親が女にだけなってしまったから、
子供より男が大事になるんだ。
母親になれない奴は、子どもを産むな。」
真愛もそう思った。
しかし、真愛は、息子より旦那様が好きだったので、厚洋さんが息子を虐待していても息子を守れない母親だったかもしれない。
息子を健やかに育てられたのは、厚洋さんの優しさと助けと理解があったからだ。
児童虐待が許されないことを明確化するため、「懲戒権」を規定する条文そのものを、削除する案が示されている。
一方で、見直しにより、親による必要な教育やしつけなどもできなくなる懸念があることから、親が体罰を除く指示や指導ができることを明記する案、体罰の禁止だけを定める案も示された。
要するに「叱る」ことはできるが「体罰」は、あかんというわけだ。
中間案は、早ければ年度内にとりまとめられ、来年の通常国会での提出を目指すという。
しかし、なんだかスッキリしない。
真愛は、母一人で育てられた為、何十年も叱られながら生きて来た。
ちょっとでも「嘘」をつくと母親の手が飛んできた。顔を背けてしまう事を避け、右頬は柱につけて,左頬を平手打ちでやられた。
口の中が切れて、鼻血が出た。相当な悪い「嘘」をついたのだと思うが、
(血の味って、塩っぱいんだ。)
と思った事しか覚えてない。
小学校に上がる前の事だ。
神社やお寺の森に捨てに行かれた事もある。
お尻を打たれたのは、数え切れない。
幼い真愛に言ってもわからない時には、「懲戒権」を使ったのだ。
しかし、母はそんな言葉を知らなかったと思うし、母の思いが、(父親が居ないから,悪く育ったと言わせない。)であった事が良くわかった。
叱られて殴られても、真愛は母親が大好きだった。小学校に上がってからは、「体罰」ではなく「泣き落とし」が多かった。
「そんな子に育てた覚えはない。」
「こんな子を育てた責任は私に有る。」
と言いながら泣く母親をみて、
(一発、殴られた方がよっぽどいい。)
と思った事も有る。
最悪だったのは、
「世間様に申し訳ない。」
と母親が自殺しに線路に向かった時だった。
己の悪さのために、最愛の母を死なせるようなことは絶対してはならないと思った。
それ以後だろう。真愛が真っ正直に生きられるようになったのは…。
(と、言って狡い事をちょっとはした。その時、『いけない!』と抑止を掛けてくれるのは母親や厚洋さんや世間様に育てられたお陰だと思う。多少の「体罰」は、良いのではないかと思うのが本音だ。)
真愛は、子どもも育てたのに、親の「懲戒権」という事が民法に規定されていたことを知らなかった。教員の「体罰禁止」は知っていたが…。
そこで調べてみると、
全国の児童相談所が2018年度に児童虐待の相談・通告を受けて対応した件数は
15万9850件
統計を開始した1990年度から連続して増加しているという。
2019年1月(一年前)千葉県野田市での小学4年生の児童が児童虐待で亡くなっている。
児童虐待事件が増えてくる中、裁判において被告人が、自身の行為は「しつけ」であって、「虐待」ではないという。
「しつけ」についての法律上の定めとして、「懲戒権」が取り上げられた。
(弁護士先生なんだろうなあ?)
法律で「懲戒権」が定められている以上、叩くなどの行為についても「しつけ」である。
「しつけ」は、家庭内、親子間で行われる行為なので、どういう気持ちで行ったのかという親の気持ちはわからない。
そのため、しつけなのか虐待なのか、その判別が難しい。野田市での事件でも、逮捕された親は、「しつけのためだった」と話しているという。
児童虐待の流れを受け2019年6月1日。児童虐待防止対策の強化を図るための児童福祉法等の一部を改正する法律が参議院本会議で可決、成立したそうだ。
法律で親権者による体罰の禁止が決定。
だが、懲戒権の規定を削除したとしても、親権者は民法820条の「監護及び教育」の一環として懲戒と同様の行為をすることができる。
民法822条は
「第820条の規定による
監護及び教育に必要な範囲」で懲戒権を行使できるとしている。
その民法820条は監護及び教育について「子の利益のため」と目的を限定していることから、懲戒権は「子の利益のため」に行使しなければならない。
法律によって体罰禁止が明文化されたので、「懲戒権」をわざわざ削除する必要はないと言う人もいる。
昔人間の真愛は、
「子どもの「躾」はどうすりゃいいんだ?」
と悩んでしまう。
教育基本法(平成18年法律第120号)
(家庭教育)
第10条
父母その他の保護者は,子の教育について第一義的責任を有するものであって,生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに,自立心を育成し,心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
国及び地方公共団体は,家庭教育の自主性を尊重しつつ,保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。
(幼児期の教育)
第11条
幼児期の教育は,生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであることにかんがみ,国及び地方公共団体は,幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備その他の適当な方法によって,その振興に努めなければならない。
全て、子どもの「幸せ」を願っての文言だ。
子どもを育てる親には、「生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに,自立心を育成し,心身の調和のとれた発達)をさせるべく義務が伴う。
幼児を育てる親は、「生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであること」を理解し、実践しなければならない義務が有る。
真愛の母親・私たち夫婦は、その義務と責任を果たすために、「躾け」をしてきたのではない。
ただひたすらに「我が子が愛おしく、その子が将来幸せになるために、褒めたり,叱ったりしてきたのだ。
働いていた真愛が息子を連れて、厚洋さんの実家に帰った時に、義母に
「お箸がちゃんと持てないの?
躾ができてないのかね。
働いているから仕方がないかね。」
と言われ、泣いて
「私、仕事辞めます。」
と言い、厚洋さんも義母さんも困らせた事があった。
子どもの立ち居振る舞いも、学習能力も、心の有りようも、全て「躾け」と纏められたら、誰も子育ては出来なくなると思った。
にも関わらず、真愛も母も子育てを放棄しなかった。
「愛しかったからだ。」
真愛は、一度だけ
「母さんは、お兄ちゃんばかり可愛がる。
私のことなんか可愛くないんだ。」
と泣いた。貧しくて女の子なのに兄のお古を着ていた。長兄で有る兄は、母の父親がわりに大事にされた。食べる物も着る物も「まず兄!」からだった。
(今、考えればよくわかる。
成長期が先に来て、ズンズン伸びた兄貴は、
182センチ。当時では大男になり、バスケッ
ト選手として引き抜かれた。)
母は、悲しそうな顔をして
「ごめんね。悲しい思いをさせてたんだね。」
と言った。真愛は、言ってはいけない一言だったのだと後悔したのを覚えている。
お金がないから、誕生日には何もできない。
「ごめんね。
誕生日プレゼントがなくて。
プレゼントはこれ!」
と言って、母が思いっきり抱きしめてくれた
12歳の誕生日。
(だから、抱かれるのが好きなのかもしれな
い。真愛の愛情の確かめ方なのだ。)
今でも、一番のプレゼントだと思う。
真愛の幸せ感は、母の愛情に包まれて育ったからできたものだと思う。
鼻血が出るほどぶん殴られたにも関わらずだ。森に捨てられたにも関わらず、そう思えるのだ。
真愛の母親も厚洋さんも「勉強しろ!」とは言わなかった。受験生になったとき、
(友達の家の人のように、もっと『勉強し
ろ!』と言ってくれたら、真愛の頭も良くな
ったかもしれない。)と思った事があった。
しかし、真愛の場合、言われてもやらなかったろう。そんな事でイライラしたくなかったのかもしれない。
母は、真愛の手先の器用さを褒めてくれたし、短歌や俳句を褒めてくれた。それは、真愛の個性を見抜いていたのかもしれない。
学歴コンプレックスをもっていた真愛は、息子に「真愛の理想」を押し付けていた。だから子どもと当たる事も多かった。
厚洋さんは、
「いいか。
親子喧嘩ってのは、無いんだ。
親は、教育する立場であって、「喧嘩」
なんていう同等の思考回路じゃダメなんだ
よ。お前のは「親子喧嘩」。
あり得ない。親じゃない。」
と嗜められた。
厚洋さんは、父親をしていたのだろう。
真愛は、母親ではなかったのだ。
「懲戒権」から、だいぶ飛んだ。
しかし、子育てにとって大切な事は、自分の子であれ他人の子であれ、「その子にとっての幸せを考えること。」「愛子(いとしご)である事。」だと思う。
我が子が他人様から叩かれたら、叩き返したいほど憎らしく思うだろう。それを自分がやる事が間違っているのだ。
法律ができる前から、親は「子どもの幸せ」を願ってきたのだ。
厚洋さんや真愛の教え子たちも素敵な親御さんになっている。
みんな親・家族や社会に育てられて、立派な親になっている。
法律で明文化しなければなければ、子育てもできなくなった親たちだとは思いたくない。
それが、真愛の「懲戒権」に対する違和感だった。
新聞に「しつけ」の仕方が載っていた。
子どもの個性を尊重するといっても、
「子どものいうことを何でも聞き入れる」
「子どもを甘やかす」ということではない。
【親としてしつけをすべきときは
しつけをすべきです。】
「しつけ」をする者は、どういう「場合」にしつけをすべきなのか、見極められる能力が必要であり、その「方法」も身に着ける必要があるという。
特に子どもが幼いときは、なるべくその場でしつけをする事。
時間を空けると、子どもは何のことでしつけを受けているのか分からなくなる。
更に、どんなに幼くても「理由」を言わなければ、親の意図がわからないという事だ。
大声で怒鳴ったり、人前で子どもの自尊心を傷つけることも、親の意図が通じない事になる。
“三つ子の魂百まで”という諺があった気がするが、「躾」は、3歳までかなと思う。
幼稚園や保育園に行くようになれば、家族以外の社会の中で「しつけ」では無く「社会のルール」を学んでいくのだと思う。
厚洋さんが言っていた
「アイツにもアイツのメンツがあるんだ。
一人の人間として、尊重してやれよ。」
ということの大切さだ。
子どもが6年性の時、PTAの作文コンクールで県知事賞を頂いた事がある。その時の審査員の批評の中に
《我が子に向かって、「あなた凄いじゃない」
と言える母親は、珍しい。
大切にして欲しい思いだ。》と。
しかし、その後も息子とは「親子喧嘩」をし、母親としては息子にも厚洋さんにも迷惑をかけた。
厚洋さんが亡くなった今、息子夫婦に支えられて生きている。
「喧嘩」なんかして捨てられたら大変だ。
親の「懲戒権」を考えなくても、子どもが健やかに育つのは、「夫婦円満」「自他の尊重」・・・。親の心の有り様かなとも思う。
大笑いの我が家の孫と嫁さん。
真愛の子育てよりずっとずっと素晴らしい。
「愛しい人の子の子」だ。
「堪らなく愛しい。」
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります