君津地方教職美術展
ぐずぐず悩みながら描いた日本画の作品を搬入し、一週間。
息子家族がみんなして見に来てくれた。
毎年、コロナ禍で出かける事が出来なかった為に、教え子のお母さんを誘って見に行って貰っていた。
今年は、国際交流の活動報告を公民館に展示するとか、三絃のお稽古日と重なったとかで、結局、息子家族と見に来ただけで終わってしまった。
お嫁さんは、丁寧に
「これが杉の木の皮なんですか?
どうやって剥がすの?」
なんて聞いてくれるが、孫はプイッと別のところに行き
「お花が綺麗!このお花何?」
「フリージアよ。綺麗ね!」
絵のバランスが良いとか、デッサンが巧みだとか、筆のタッチがいいとかは関係ない。
大好きな花があって、自分が気持ちよくなった絵がいいのだ。
本来、鑑賞の基本はそれなのだろう。
評論家ではないのだから…。
厚洋さんと若冲を見に行った時に、狩野芳崖の悲母観音像が展示されていた。
小さい頃から好きだった絵を間近で見た感動とあの観音様の手が好きでずっと見ていたかった。
ところが、若冲さんが大流行りの頃だったので、大変な混みようだった。
後ろから押されなければ、厚洋さんに「おい!行くぞ!」って言われなければ、一日中その絵の前にいたかった。
何が良いかと問われても答えられない。
「分からないけど、そこに居たいのだ。」
真愛の心を惹きつけた狩野芳崖の悲母観音像
絵葉書だけを買って帰って来た。
基本的に正しい孫の鑑賞方法であると思う。
そうそう、ゴッホの自画像を見て、ひまわりを見て熱く語るのも良い事だとは思うが…。
真愛はよく分からずに絵をみている。
箱根で見たピカソのゲルニカなんて
「あっ。そうなんだ。」
で終わり。
ピカソの若い頃の風景画やデッサンに感動した事もあった。
そんな奴が美術展の作品を云々できない。
息子は、我が家近くの懐かしい「安田商店」の大きな桜の木を描いてある絵の前にいた。
「良いなあ!
欲しいよね。この絵!
ちょっと退けて。
ガラスに母ちゃん映り込んじゃう!」
と写真を撮っていた。
確かに春の雨の後、鮮やかに咲き始める桜。
更に、ここの夜桜は最高に美しい。
厚洋さんと夜帰ってくる時には必ず止まって、桜の下に立ち見上げたものだ。
今は、ひとりで車から降りるのが怖いので、
右折してから端に止めて窓を開けて見上げる。
安田商店もおじいちゃんが亡くなってからは店を閉めてしまった。
息子にとっては、幼い頃のいい思い出が詰まった一枚の絵なのだ。
「買いたいよね!」っていう言葉が、厚洋さんに似てると思った。
彼もよく丸善に行っては、ちょっとした絵を買って来ていた。
発想は面白いが絵を描く力が無いので箱の中の空間が平面的である。右下の鉄線は浮き上がって来ない。
次回の作品は、遠近をしっかり出せるように勉強しなければと思った。小手先だけのアイデアで逃げてはいけない。
先輩の作品だ。
雲が空を掴んでいるようで、面白いと思った。なんだか吹き飛びそうで写真を撮っていると、先輩が現れた。
「これさ!
孔雀の羽で書いたんだ。」
先輩は、展覧会で「東京都知事賞」をとるような凄い書家だが、真愛みたいに奇抜な事もやっている事に驚いた。
描きたい心・書ける技術に面白い発想はやっぱり良い物ができる。
今年から「絵手紙」の部門も開設され、先輩は絵手紙も出品していた。
なんと、先輩主催の「星野富弘詩画展」の宣伝のお手紙だった。
「来館者の皆様へ」
である。
「これさ。
綿棒で書いたんだよ。」
「いいよ いいよ 春
富弘さんへのエール。
桜咲く 亀⛰へ
どうぞ。」
「御免なさい。笑っちゃいました。
いいです。とっても!」
本当にそう思った。絵手紙とは、誰かに読んでもらいたいから描くのだ。
ガラスの額に入れて、我が家に飾って置くのは絵手紙ではなく。葉書に書いた絵と書である。
喜んで貰いたい誰かに文字だけではなく
絵も添えて心を描くのだと真愛は思っている。
自分に向けて描いた絵手紙なら
我が家に貼って毎日みてもいい!
先輩は絵心もあって、魅力的な絵を描く。
字もいいから、詩画が上手い!
悔しいかな。
花房しか描かない桜で満開を感じた。
自分で自分に
「作品作りに勝ち負けはない美術展だ。」
と言い聞かせてはいたが、最終日(搬出のために作者が訪れる)に、錦織画伯にお会いした。
前年度には、雪溪を描いていらっしゃった。
雪が積もっているだけではなく、松の上の雪の落ちる音が聞こえて来そうな静かさと雪の日の温かさも感じた絵だった。
どんなに若い方が描いているのだろうと思っていたので、絵の近くに立っている若い方を捕まえて
「どのくらいかかってお描きになるのかしら」
と伺うと、
「凄い時間でしょね。
あっ。僕ではないですよ。」
と錦織画伯を教えてくれた。
お年を召した方だった。
「若い!」
絵に対するエネルギーというか、絵を描きたいという思いなのか、凄く若々しい絵だと思ったから間違えたのだ。
作品には必ずその人の想いが宿るのだ。
その想いが見ているものに何かを語りかけ、その想いが共鳴した時に「気持ちの良い」感覚を味わうのだと思った。
真愛の心に響くものと息子の心に響くものが違うように、全ての人の心を打つものなんて本当に素晴らしいのだ。
(中には、
金額で心を動かす方もいるようだが…。)
コロナ禍が収まって、出かけられるようになったら、やっぱりたくさんの美術館巡りをしなければと思った。
先輩曰く
「4月1日からだからな。」
「はい。
最終日に、館長さんが講演されるんでしょ?
お目にかかりたいですね。
何回か、
お友達と一緒に参ります。」
忙しくてこの作品展に一緒に来られなかった廣中さんと一緒に行こうと思った。
良いものは、たくさんの方に見て、聞いて欲しいと思う、、
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります