秋支度
草だらけだった庭の草取りをした。
5月に引っ張り出して来た紫陽花の鉢も北側の庭に移動し、ポスト近くにあった小さな向日葵のプランターも桔梗の横に移動した。
北側の三葉躑躅の下で時期を待っている「紅葉」の鉢を玄関近くのイロハモミジの下に配した。
すでに立秋を迎えているので「秋」であるから、「秋支度」というには遅いかもしれないが、訪れる秋の庭のために仕事をしたので、
「ああ!
秋じたくが出来たかな?」
と思ったのだ。
「秋支度」なんて言葉があるのだろうかと季語集を開いたが、「冬支度」は有っても「秋支度」は見つけられなかった。
仕方がないので、国語辞典で「したく」を調べてみた。
書き方としては「支度」「仕度」の両方が載っていた。
使い方は、「どっちでもいい」という言葉で、特に使い分けがあるわけではないという。
しかし、漢和辞典で調べてみると、少し違う。『大漢和辞典』には、「支度」は載っているが、「仕度」は載っていない。
「支」と は、「ささえる」という意味と「はかる」という意味も持っている。
「度」の方にも同じような意味があって、「支度」の2文字で「計算する」で、この熟語の本来の意味だそうだ。
この「計算する」が、「前もって計算する」となり、それが「前もって準備する」という意味に変化していった結果、「支度」という熟語が使われたようだ。
一方の「仕度」は、当て字だそうだ。
前持って冬の準備をするので「冬じたく」。
前持って秋の準備をするので「秋じたく」だ
と言いたいところだが、どうも「支度」に対する身構え方が軽い気がする。
「春じたく」も「夏じたく」も無さそうなのはそう言った語感からなのだろうか。
「春じたく」は、晩冬の季語として、立春を迎える軽やかな面持ちを表しているようである。
「夏じたく」は、「衣替え」のような言い方で季語になっている。
真愛の個人的な考えであるが、人はズルズルと変化するものについては言葉を与えず、厳しいものが待ち受けたり、厳しいものから解放される瞬間を沢山の言葉で表現していると思う。
要するに、心が大きく動いたり、心に強く念じたりする時に「言葉」が与えられるのだ。
真愛は、ズルズルと変化するいい加減な心にも「言葉」をつけたいと思った。
夏草を刈り、鉢植えの紫陽花を玄関アプローチから裏手に仕舞い、鉢植えの紅葉を出してくるのも、「秋」への支度である。
と、「秋じたく」をした翌日は、猛暑日で気温33.2度。
出した植木鉢の紅葉の葉が、日に焼けてしまうことを恐れて元に戻した。
8月23日。処暑(しょしょ)
暑さがおさまるころ
まだところどころ暑い頃である。
こんな不安定な時に「次の支度」はしない方がいい。
9月8日(木) 白露(はくろ)
白露(しらつゆ)が草に宿る頃だという。
そして、
9月23日(金) 秋分(しゅうぶん)
秋の彼岸の中日、昼夜がほぼ等しくなる
この頃になれば、彼岸花が咲き、ホトトギスが咲いて!しっかりと秋がくる。
「秋」は、支度をして待つのではなく、
ー 風の音にも 驚かれぬる ーなのだ。
そうそう、立秋の日に我が家の床下のコオロギが鳴き始めた。
気候変動と言われていてもきちんと「秋」を知らせてくれる虫達に驚かれぬるである。
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります