晴耕雨読
「晴耕雨読」とは、仙人になるための行動様式かな」と思った。
今日は、珍しく暑くもなければ、寒くもない。
そこで草取りを始めたのだ。
8月にがっちり草取りをしたので、もう秋だから草も生えないだろうと思っていたが、大間違えだ。
暫く天候不順だったのと、北側の庭木の剪定や片付けをしていて、「柚子の棘を踏み抜いたこともあり、草取りをしなかった。
(と言っても2週間9月に入ってからなのに)
山羊が喜びそうな柔らかい草が、10cmほど伸びてきていた。
よく見ると、ラベンダーの下、芍薬の下、芝桜の間は、まだ夏草の取り残しがワシャワシャと伸びていた。
夏蜜柑の枝も、萩の花の枝も伸び放題。
4時間かけて、草取りとちょっと剪定をした。
厚洋さんの命日まであと2日。
草取りをしながら、彼が元気だった頃、
「晴耕雨読の生活がしたいな。
晴れたら畑地を耕す。
雨が降ったら、騒ぐこともなく
本を読んで暮らせば良い。
自分で作ったものを食べ、贅沢はしない。
雨の音を楽しみ、鳥の囀りを愛でる。
穏やかな生活がしたいなぁ。」
と言い、我が家が建っているど田舎、山ん中に家を建てた。
彼の退職後は、望み通りの生活をしていたと思う。ただ、教職という「人間の伸び」の楽しさを知ってしまった彼にとって、やや物足りなさを感じていたと思う。
しかし、真愛がガッツリ心配をかけた。教職についていた時よりも、真愛の教育活動の支援の方が大変だったかもしれない。
仙人のような生活には至らなかった。
もちろん、お酒が好きで、タバコがやめられず、パチンコにも行く、骨董も買う、お高いプラモデルを作り、美味いもんも食べたい彼だった。
作務衣を着て、髭を生やし仙人のような風貌ではあったが、俗人だった。
要するに、山の中に籠っていなかったのだ。
具合が悪くなり、動くのが辛くなった辺りから仙人っぽくなったが、本は読んだが、畑を耕すのは真愛がやっていた。
仙人も具合が悪くなれば、病人である。
晴耕雨読ができるのは、足腰がしっかりしていて体力があり、視力の衰えがなく健康でなければできない。
その厚洋さんが逝ってしまって、真愛が仙人になった気がした。
コロナ禍で、山の中ではなくてもお篭りをしなければならない。
人と会わない。俗世間の中でワイワイやるのが大好きな真愛なのに、降りたくても下界に降りられないのだ。
下界に降りても、話が出来ない。声すら出さないのだ。居てもいなくても同じ、仙人どころか透明人間になりそうだ。
外に出るのもつまらないから、草取りをする。
厚洋さんとの思い出なんか考えながら、これから伸びていく未来を毟り取ってやる。
晴耕雨読。
晴れの日は耕し、だけど、草取りはどうするんだ。耕すより耕すまでの方がずっと大変なんだ。
とか、
雨の日は本を読んで、だけど、線状降水帯が止まって、雨漏りするわ、洪水になるわ状態なら、作物は育たない。
なんたって、オクラが200円。茄子が300円。
野菜コーナーに栗がいっぱい並んでいた。
仙人になって、霞でも食べなくては生きてはいけない世の中になった。
我が家の金木犀も花が咲き、優しい香りを振りまいている。
雨が降る日は、空気が下の方にいるのだろう。
草取りをしている真愛のところにも流れてくる。同時に、ドクダミを毟り取った匂いもするから、情緒がない。
晴耕雨読なんて、本当に自由人・風流人が望むことで、もう少し生きていなくちゃ!
まだ、やりたい事があるって言う年寄りには、
遠い言葉だと思った。
南の島では、台風14号がずっとウロウロしていて、また洪水が起こりそうだ。
我が家の金木犀に雨が降り始めた。
静かな雨だ。
厚洋さんが亡くなり、お通夜の日の朝
その年初めての金木犀の香りが流れた。
金木犀が香り始めると
仙人みたいだった彼がいないことを
突きつけられる。
ー 晴耕雨読 ー
金木犀の香りの中で、
彼の好きだった本でも
読み直そうかな。
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります