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周期的に来る「面倒臭い」病

 朝起き上がるのが面倒臭い。ご飯作るのが面倒臭いから食べない。
 掃除をしてお仏壇にご挨拶。ニャンコにご飯とお水。トイレの掃除もした。
 愛しい人とのルーティン。
 生きてる物の世話。
 最小限のことをしたら、何もしない。やる気が起こらないのだ。
 やらなくてはいけない事は、両手に余るほどある。頭の中では、「やらなくちゃ!締め切り」「やらなくちゃ。約束したからなあ」
「やらなくちゃ!後で自分が困る」と動けなくなる程考えている。
 しかし、面倒臭い。
 締め切りまで、まだ2週間ある。
 金木犀が咲き始めるまでは、まだ大丈夫。
 どうせ、困るのは私だ。
 誰にも迷惑を掛けない。
と、自分の中で折り合いをつけてくれる自分もいる。
 noteに書いたら、きっと、
「わかるわかる。うん。動けないよねー。」
って思ってくれる人も多いと思う。
 いや、
「あんたは幸せ。面倒臭いって思って
 動かなくていい選択肢があるのだから。
 選択肢はひとつ。「やる」
 やらなければ生きていけないのだもの!」
と言う方もいらっしゃるよね。

 厚洋さんは、(具合が悪くなるまでは)よく動く人だった。朝早くから起きて仕事をしたし、学校の仕事も学校で終わらせて、自分の時間を楽しんでいた。
 彼は、退職してからも良く動き、私のようにボーとしている事はなかった。自分のやりたい事を楽しんでいた。(今考えると、人生を目一杯楽しんでいたのだ。早く逝くことがわかっていたのかな?)
 彼が面倒臭いと言ったのは、病院に行く時だけ。面倒臭いと思う事は、「やっても仕方がない。やっても意味がない。」と潜在意識の中で決定した事なのかもしれない。
 真愛の「詠進歌を作る」も「結果は選外にしかならない。何故なら、真愛にはその力がないから。」と潜在意識の中で決定させているので、何処かをぐっと抑え込まないと「面倒臭い」と出て来てしまう。
 精神的ヘルニアだ。

 そんな時、何処をぐっと押さえて「面倒臭い」を封じ込めたらいいのだろうか?

 ちょっとしたスイッチを押すのだ。
 脳の中にある淡蒼球というところが活発に活動をすると「やる気」が出ると言われている。
 脳みそかっぽじって、淡蒼球のマッサージをすればいいのだが、そんな事はできない。
 しかし、「体を動かす事」で、脳が刺激されて淡蒼球のスイッチが入るらしい。

 「やる気」は待つものではなく、迎えに行ってやるものだそうだ。「やる気」も面倒臭いやっちゃ!ね。 
 また、「やり始めたら半分終わったのも同じ」と言われる。とにかく、やらなければあかん事のスタートをとりあえずやるのだ。
 「原稿の締め切りがあるのなら、とりあえず、ノートとペンを出すのだ。」
「絵を描くために画用紙とペンを出して花を書き出すのだ。」
 仕事をしたくなるまで待っていたら、いつまで経つまでも進まない。
 だから、毎日のルーティンの中に、仕事にONする時間を入れるのだ。
 今日は何をしようではなく。「明日は、草取り」なら、必要な事をし終わったら、草取りの服に着替えて外に出るのだ。
 「面倒くさかったら、外に出てから帰ってくればいい。」
 帰ってくる私を想像する事は出来なかった。そこまで、やったら草取りをしてしまう。

 
 面倒臭い病の改善のためには、やらなくてもその場面を作る事だ。
 ぐっと抑えるのではなく、ちょっとだけ「身体を動かす」のだ。
「立ってみる」
「持ってみる」
「握ってみる」
「着替えてみる」
 私が、学校行きたくない病になった時
と同じだ。
「同じ時間に起きてみる」 
「鞄を持って玄関までは行く」
「ノートに月日ぐらいは書いてみる」
 一年ぐらい学校に行かなくったって、長い人生だもの、その時間を上手に使えば良い。 
 知識を身につけたければ、幾つになってもやる気さえあれば大丈夫だと思う。
 ただ、本人は「行かなくちゃ」って思うのだから辛い。面倒臭い病に似てるかもしれない。
 ちょっとだけ動くのだ。
 原因が何かわからないのに、いい加減な事を言って申し訳ない。
 しかし、「やる気スイッチ」は、脳の中にある淡蒼球を押すことだ。
 押すためには、「動く事」だそうだ。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります