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子育てパニック 叱る

(叱る依存になってない?〕って言う見出しの記事を読んだ。
 全く同じ事を38年前にも厚洋さんに言われた。
 当時は、自分の教育論もあり、クラスも良くまとまっていたので、
「そんな事はない。
 論理的に叱ったら子どもたちはよく話を聞いて
 くれて、自分の行動を直してくれる。
 真愛の学級経営は不味くない。」
 要するに、自分の指導法の拙いところを指摘され、悔しくて無理矢理正論化した気がする。
「叱ることに依存しているわけではない。
 ちゃんと叱れば子どもは良くなる。」
と思っていた。
 厚洋さんの考え方は、
「どんな叱り方でも、叱るという行為は、
 なんの効果もない。
 叱るという行為は、否定することである。
【いけない。】と言われたら反発するしかない」
と言うのだ。
 その通りだ。
 真愛の指導について否定されたので、その反発は、彼の考えを聞こうとはしなかった。
(厚洋さんは子どもや他の人には優しいが、真愛
 には結構キツイことを言う。真愛を虐めること
 が好きだった気もする。)
「厚洋さんは皆んなには優しいのに、真愛には
 冷たい。」
と泣いたこともある。
「お前は他人ではない。お前は俺だから…。」
と分からないことを言ったことも思い出す。
 息子が
「部屋を片付けない。」
「勉強をしない。」
と親子喧嘩をすると、
「親子喧嘩っていうのはあり得ないことなんだ。
 喧嘩とは、力が拮抗している時にすることで
 あって、相手が自分より弱い者であればそれは
 虐めだろう。」
(あなただって真愛をいじめてるじゃないか?)と思ったが言えなかった。
「親子間でする事は、教え諭す事だ。」
 確かに、厚洋さんは息子に怒ったことがない。
当然叱ったこともない。
だから、真愛は、
「いつもいい役ばかり厚洋さんで狡い。」
と思っていたし、そう言ったこともある。
 38年前のことだ。
 それと全く同じことが、見出しに書かれていて驚いた。
 臨床心理士の村中直人さんの話だった。
 叱るというネガティブな感情を道具として使うやり方は、学びや成長に寄与しないばかりか、むしろ阻害要因となる。
 この考え方は別に目新しい情報ではないそうだ。もう既に論議され尽くしていることらしい。
(厚洋さんは当時の最新情報を知っていたのだろう。)
 しかし、専門家の中では常識になっていることが上手く社会とリンクしていないのが問題だという。(真愛は、その典型でずっと怒ることは良くないが叱る事は良いと思っていた。)
 一般的に、頭では納得していても時間や心に余裕がないと、子どもを叱ってしまうという親は多い。
 叱るという行為は、自分の欲求を満たす「快楽のための行為」でもあると言う。
 子どもを叱っていた時に
「快楽だったか?」
 と問われれば快楽ではなかったと思う。
 どうして片付けられないのか?
 なぜ勉強をしないのか?
 なぜ私の言うことを分かってくれないのか?
 悩んでいたのだと思いたいが、「出来なければ
 出来る様になる方法」を考えてやれば良いの 
 に、自分のそうしてやれない事に怒り、
「叱る」事に依存していたのだ。
 
「あんたのは、快楽!」
と言われると反発してしまうが、
「叱る事依存症」になっていたのだ。
 イライラを叱ってスッキリさせていたのだから「依存症」である。
 もう少し指導力があれば、イライラしない状態を作れたのだ。
 息子にも教え子にも申し訳ないと思う。

母の日に息子のお嫁さんから

 何故、子どもを叱りたいと思ったのか?
 それは、真愛の持つ「子どものあるべき姿」と「真愛の目の前にいる子どもの姿」がズレていたからである。
 要するに、(私の思い通りでは無い。)事に対する怒りだったとしたら、それはロシアのプーチンさんや北朝鮮の金さんと同じ、【権力者の怒り】なのだ。
 真愛のように権力者としての
(子どもより優位に立っている・権力を持っている)自覚がないから、更に悪い。「無自覚な権力者」になっていたのだ。
 あるべき姿とは、誰が決定するのだろう。
 人生の中で「あるべき姿なんてない。」
 精一杯生きているんだから…。
   それがわかるのは、子育てが終わって己が朽ちる寸前である。
 いや、父親の厚洋さんは分かっていたと言うことは、真愛が聞く耳を持たず、無知であったからだ。
「部屋の片付けができない。」と叱っていた時、真愛は、子どもの部屋の片付けがどれぐらいが片付いていれば良いのかという「あるべき姿」を自分の押し付けであったと気づいたら、
「床は見えるようにしておいて」
「いや、どのくらいが片付いていると思う?」
「一緒に片付けてもいいかな?」
と言えただろう。
 更に、部屋の管理全てを息子に委ねるのではなく、
「清潔に保ちたいから1週間に一度は、
           ママに掃除させて?」
と聞けたかも知れない。と言っても忙しさにかまけて、子どもに任せて置いて、個人面接で
「身の回りの始末が…。」
と言われて「叱る」は「怒る」である。
 親の悪さを棚に上げて「叱る依存」である。

偶然撮れた本棚

「叱る」前に、双方が納得し、満足できる方法を考える事で「怒る」も減少すると考えられる。
 村中氏に
「組織体を運営していく以上、ある程度のコント
ロールは必要になるので、「叱る依存」と組織運営についてどう思うか?」
とインタビューしていた。
「『多様性の科学』という本に面白いことが書い
 てありました。
 組織内の上意下達をどれぐらい強力にすれば組
 織が成長するか。
 実は、やるべきことが明確で困難が大きくない
 状況であれば、ヒエラルキー(階層)が
 はっきりしている方が組織は強い。
 ただ、こういう組織は変化に対してもの凄く
 脆い。
 ではどうすればいいかというと、
 組織に多様性がきちんと確保できているかどう
 かが鍵になる。
 だが、多様性が大事と言っても管理職を減らし
 て組織内の階層を無くしても上手くは行かない
 分かったことは階層自体は必要なのだという事
 しかし、階層には、弊害があって、
 豊富なアイデアが出にくくなる硬直化の面が
 ある。
 結局、階層を保った中で、いかにみんなが活発
 に意見やアイデアを出せるのかが勝負で、
 その時に「心理的安全性」
《役職や地位に関わらず誰もが率直な意見や素朴
 な疑問を交わすことが出来る環境のこと》
 が注目されて来ている。
 その心理的安全性を担保する上で
 一番の“敵”が「叱る依存」なのだ。」
と回答している。

 そうだ。もっともだと思った。
 自分の価値観で「あるべき姿」を決められ、それにそぐわなければ「強制的」に直される。
 直された結果は、相手にとっては支配下の行動であって、自分の意思ではない。
 たとえ「部屋が片付いても」「身の回りの清潔さを保つ習慣」にはならない。
 真愛の願いは「叱る依存」で、幾ら叱っても治らなかったわけである。
 無自覚の権力者が無自覚の抵抗力を強くしただけなのだと思う。
 息子が一人暮らしを始めてもその部屋に行かなかったのは、無意識下で「また叱ってしまう」事が嫌だったのだと思う。
 自由になった息子の部屋は見たことがないが、
彼女(嫁さん)ができた頃、引っ越しをした部屋の写真を送って来てくれたことがあった。
 
厚洋さんも真愛も
「素敵な部屋だね。
 スッキリしていて、こんなうちに住みたいね。
 一人暮らしはいいねえ。」
と羨ましがったのを覚えている。
 自分の意思が大事なのだ。叱るより…。
 
で、つい先日、LINEで
「部屋掃除をしたー。」
「やりきれないので、K(嫁さん)に手伝ってもらった💦」
と、一緒に送って来てくれた写真は、なかなかの整理整頓でいい部屋だった。
 娘も2人いるのだから、荷物は増える。
 それでも、自分の部屋をもらえるだけでなかなかの生活を営んでいるではないか。
 繰り返すが、住めば住むほど、暮らせば暮らすほど、物は増える。
 にも関わらず、それを「片付ける」息子の成長に母はびっくりしている。
(これはひとえに、お嫁さんのおかげだと思う。)
 
 ただ、「叱る依存」で育ててしまった真愛のお陰で、なかなか「片付け上手」にならなかった旦那を持つお嫁さんには、本当に申し訳ない。

復活剤

 そのお嫁さんからもらったプレゼントとバッファリンプレミアムとOS1のお陰で、第3回目のワクチン接種の酷い副反応を乗り越えられた。
 我が家は、今「嫁依存症」かも知れない。
 コロナ禍が収まったら、真愛の家でその労を労わなければ、彼女が潰れてしまう。
 頼りにするのはいいが、依存はいけない。
 何事もだ…。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります