霧がかかる
冷たい雨の後、夕方から霧がかかった。
なんで、霧が魅力的なのだろう。
霧とは、水蒸気を含んだ大気の温度が、何らかの理由で下がり、露点温度に達した際に、含まれていた水蒸気が小さな水粒となって空中に浮かんだ状態を言う。
小さな水玉が浮いている時なのだ。
その発生要因によって、「放射霧」というのがある。
晴れた冬の日などには、地表面から熱が放射され地面が冷える。
そうして冷えた地面が、地面に接している水蒸気を多く含んだ空気を冷やすことで発生するもの。
盆地や谷沿いで発生しやすく盆地霧、谷霧という。
「移流霧」は、暖かく湿った空気が水温の低い海上や陸地に移動し、下から冷やされたことにより発生する。
移流とは大気が水平方向に移動することを指す気象用語で、暖流上の空気が移動する。
夏の三陸沖から北海道の東海岸などに発生させる海霧などがその代表的なもので、消滅までに非常に長時間かかり、厚さが600メートル程度に達することもある。
「蒸気霧」は、暖かく湿った空気が冷たい空気と混ざって発生する。
冬に息が白くなるのと原理は同じ。
暖かい水面上に冷たい空気が入り、水面から蒸発がおき、その水蒸気が冷たい空気に冷やされて発生するもので、実際は冷たい空気が暖かい川や湖の上に移動した際にみられる。
風呂の湯気も原理は同じで、北海道などの川霧が代表的なもの。気嵐(けあらし)である。
厚洋さんが教えてくれたけあらし。
思い出しただけで、切なくなるのは何故だろう。霧っていうだけで切ない。
水なのに温泉のように川の水がモヤモヤするらしい。
それが、朝日ならば良い事がありそうなのだが、夕闇迫る頃に川から立ち上る霧は、魂が迷い始めている気がして悲しかったと話してくれた。
「前線霧」というのは、温暖前線付近で雨が降り湿度が上がったところに温度の比較的高い雨が落ちてくると、雨粒から蒸発した水蒸気で飽和状態となり、余分な水蒸気が水粒となって発生する。
暖かい雨が冷たい空気で冷やされて発生するのだろう。ということは、真愛の立っている所は冷たいって言うことかな?
「上昇霧」は、山の谷に沿って湿った空気が上昇し、露点に達したところで発生する。
遠くから見ると山に雲が張り付いて見え、その内部からの観察では濃い霧となっている。
我が家は山の中なので、麓の街から見ると、
山に向かって霧が這い上がるように見える。
その時、我が家は霧ではなく、「霧雨」が降っている。
動かないように見えても実際は空気が下から次々と上昇している。
滑昇風により発生することも多く、滑昇霧ともいうらしい。
霧の夜がなんで素敵なんだろう。
小説の題も「霧の中の…」と言うのが多い。
霞んではっきり見えない事が魅力的なのだろう。
薄いベール越しに見る美しい人なのだ。
紗がかかった美しい姿は魅力的だ。
霧は流れるのだ。
風の流れは見えないけれど、霧の流れが見えるのだ。
いつも見えないものが、見えるようになるのは神秘的である。
我が家の朝霧である。
電信柱の先にぼんやり火が灯る。
いや、太陽を突き刺した電柱を見た。
朦朧とした頭で朦朧とした景色を見た。
見慣れた我が家の庭が
横山大観の世界になっていた。
何故、霧の中にいると切ないのか。
ぼうと霞んだように見えるということ自体が切ないのだ。
雨もそうだが、視界が何かによって遮られ、紗がかがった様になることは、心までモヤモヤしてしまうのだ。
まして、秋の霧は寒さも伴って心も切なくなるのだ。
春の霧はそうでもない。
夢が朧げて儚く美しいのににている気がする
さて、毎度お馴染み、「霧」の入る歌を探してみた。万葉集から、
「秋の夜の 霧立ちわたり おほほしく
夢にぞ見つる妹(いも)が姿を」
という歌を見つけた。
秋の夜に立ち上る霧のような、ぼんやりとした夢を。愛しくて会いたくて、夢にまであなたの姿を見てしまったのだというのだ。
真愛は、霧の出た朝。
厚洋さんが
「真愛!真愛!」
って、2回も呼んでくれた。
「ん?どうしたの?」
っていう自分の声に目が覚めた。
靄とか霧とか不思議な現象が起こる瞬間なのだと思う。
百人一首の一枚札に 寂蓮和尚の
「村雨の 露もまだ干ぬ 槇の葉に
霧立ちのぼる 秋の夕暮れ」
現代歌人の長塚節氏の
「白埴の 瓶こそよけれ 霧ながら
朝はつめたき水くみにけり」
早朝の霧に包まれた中で、清冽な水を汲むには、白磁の瓶こそがふさわしい。
厚洋さんが好きだった歌で、白埴が気に入っていたようだ。
厚洋さんは、井上陽水さんの「白い一日」だったかな?その歌も好きで、
🎶真っ白な陶磁器を 眺めては飽きもせず
触れることなく一日中眺めている🎶
みたいな歌詞で…。真愛をずっと見ながら歌ってくれた。
最後に遮断機が上がり振り向いた君は
もう大人の顔を…🎶って歌い終わり
「19だったのにな!
大人になった?いやおばさんになった?」
と笑われたのを思い出す。まだ、22才だったのに(そう言えば、「22才の別れ」なんていう歌を歌って真愛をドキドキさせる厚洋さんだった。)磁器って美しい。
詩人の寺山修司氏の
[マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし
身捨つるほどの祖国はありや」
煙草を喫うために擦ったマッチが手元を明るくする。それは、暗い海上に広がる霧の深さに包まれてるいる自分?マッチを擦った男を浮き上がらせる。
暗くて先を見えなくさせている霧。
それは、まるで「芥川龍之介の遺書・僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」と重なる。
思わせる。
この暗い海は、戦いの国と繋がっている。
生きるよりどころにはなり得ない祖国、彼独特の若者の虚しさがある。
これも、厚洋さんの受け売りだ。
彼は、釧路の幣舞橋から見た夜霧の話をしてくれた。
「海は異国に繋がっている。
空は全てに繋がっている。
ここだけが霧に閉ざされ、
ひょっとしたら、
俺は何も見えていないのかもしれない。
でも、霧の街「釧路」は、
ロンドンみたいで、いいぞう!」
大好きな故郷の話をしてくれた。
だから、「霧」は不思議なことを起こしてくれたのかもしれない。
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります