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秋は月明かり 夢見せ明かり

 夕焼け空の雲の左側。電線に引っかかるようにして眉月が見えるかしら?言われなければ気づかないほど細い月。新月の翌日だったから、生まれたての月。
 厚洋さんが亡くなって769日の夜は半月だった。半分しかないのに、煌々と静かに南に輝いた。(素数の日って凄い。)
 古典芸能解説者 葛西聖司さんは、「秋は月明かりを楽しむ季節だ。」と言う。
 そして、古典芸能でも月は欠かせない存在で、能にも歌舞伎にも清元にも、光と闇の表現の妙がある。
 能の演目「羽衣」では、松に衣を忘れる天女が登場するが、彼女は月宮殿の天女である。月の宮殿には、天女が30人いて、白衣(びゃくえ)と黒衣(こくえ)が半々。十五夜は、白衣が15人。その夜から1人ずつ黒衣に入り替わって黒衣15人で新月となるそうだ。
 月宮殿の舞をする乙女の一人である彼女が舞ったのが、後世の東遊びの駿河舞になる。天女は、三保の松原の春景色が天上界のようであるといい、その美しさを讃え、「君が代は天の羽衣まれに来て撫づとも尽きぬ巌ならなむ」と詠まれた歌のようだと歌い舞っだという。
それに合わせて、笙、笛、琴の音なども聞こえて、その舞姿は、雪が舞うような美しさだったそうだ。
 769日の朝の夢には、天女が舞った。
 厚洋さんもなんだか真愛の右側にいてくれて、「夢なもんか。」って言いながら真愛の左側にある「夢解き本」を取ってくれました。
「あっ!」抱きつけるって思った瞬間。
ピンポーン。
 日曜日だったので、9時過ぎまで寝ていた私に。ご近所の奥さんがパンを焼いてもって来てくれたのだ。天女が舞って良いことがあった。

 話は伝統芸能に戻る。
 清元の「吉原雀」は、秋の月明かり?         「秋の最中の月は竹村」とある。吉原の土産菓子の最中は、満月型で「竹村」が人気店だったらしい。これもお菓子なんかに話が広がり、確かに秋だが「月明かり」の美しさなのか怪しくなった。
 同じ清元の話が書かれていて「玉兎」だった。かちかち山のバージョンアップの話だ。
 艶めいた「引き窓」と言う演目があるそうだ。「月」が無いのに「月明かり」を感じさせる。
 十五夜を明日に控えた夜の物語で、京都の八幡の里。引窓とは明かりとりの窓のこと。真夜中にその窓から待宵の月光が差し込むと、十手持ちの十兵衛は「夜が明けた」と嘘を言い「明くればすなわち放生会、生けるを放つ所の法」と目の前のお尋ね者を逃してやる。それは、義理の母への親孝行だったのだ。・・・。人情話だ。この舞台では、照明は全く変えない。浄瑠璃の「引窓ぴしゃり 内は真夜となりにける」「引縄に窓は塞がられ心は闇」「差し込む光に…」の語りだけで、光と闇を表現すると言う。
 真愛が思い浮かんだのは「名月赤城山 別れ」のシーンだった。大きな丸い月からの光が、国定忠治の小松五郎義兼の鍛えし業物(刀)にきらり!               うーん。確か、雁が鳴いて飛んで行くと言っているので秋ではあるが、古いなあ。どんどん「秋の月明かり」から離れていく。
 春の朧月・夏の闇(新月)・冬の雪月夜。  どれをとっても素晴らしいのだから、ことさら「秋の月」と言うのはなぜだろう。

 その光は変わらないはずなのに、なぜ秋の月が素晴らしいのだろうか。真愛と同じように滝廉太郎さんも「秋の月」で

♫光はいつも 変わらぬものを
 ことさら秋の 月の影は
などか人に 物思わする
        などか人に 物思わする♫
あゝ啼く虫もおなじ心か
       あゝ啼く虫もおなじ心か♪
  ♪声の悲しき♫
と歌っている。その訳をはっきりしたかった。
 結果、行き着いたのが、「気象」だった。
 秋の空気は、気温が低くなり、空気が乾燥する。すると、大気中の湿度が下がるので、大気がぼやけにくくなる。
 だから、空気が澄み、輪郭のはっきりした月が見える。
また、月の高さにも関係する。月が見える高さは、季節によって変わる。
夏の月は低く、冬の月は高い位置にある。
 月が低いと、地表近くのチリや明かりが邪魔をして暗くなってしまい、反対に、月が高いとはっきりと見えるようになる。
 しかし高い位置にあるので見上げることが大変で、あまり見ない。だから、月の高さも秋がちょうどいいと言うのだ。
ちなみに、高さによって、月の色も変わるのだとか。大気を通る光の錯乱によって、月が低いとオレンジっぽく、月が高いと白っぽく見える。そう言えば、満月の上り初めが異常に大きく見えて驚く真愛に厚洋さんは     「月の大きさは同じ。高さが違うだけなんだよ。」って教えてくれたけど、真愛の目には随分と大きさが違った。月が天中に達すると小さく見えた。

 昨日、「知恵授けの銀杏」という創作民話を書いた。その時に、「霜月の銀杏の下は月明かり」という句を思い出した。
 銀杏の木が色づくとその黄色葉が夜になると光が灯るように鮮やかに光るのだ。
 それはそれは幻想的な美しさだ。
 もう、厚洋さんがいないので一人では夜で歩けない。幻想的な銀杏の木を見ることも叶わないなあ。

 

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります