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生き方を省みる 後悔

「反省はしても、後悔はしない。」
亡くなった厚洋さんが、若い頃、教え子の卒業文集の一言に書いた言葉だ。
 彼が亡くなったことを知った教え子さんが、その文集を持って真愛の所にいてくれるまでは、「後悔する女」「迷いの海を航海する女」だった。
 ただ、厚洋さんの前では、「後悔している言い方」は絶対に言わなかった。
 なぜなら、叱られるからだ。
「自分で決めてやったんだ。
 後悔するなら、
 最初っからやらなきゃいいだろう。」
と、嫌そうにいう彼を見るのが嫌だった。
 真愛は、常に彼に褒めてもらい、可愛がって貰いたかったのだ。
 だから、
(後悔するのが分かっていれば、
 誰だってやりません。
 分からないからするんです。)
とは、言えなかった。
 失敗したり、上手くいかなかったりした事実を伝えると、
「そうか。
 で、どうしたいんだ?
 そうか。
 じゃあ。次はどうするの?
 そうだな。その方がうまくいくね。」
と、次のステップを考えさせてくれた。
 だから、必ず反省はさせられた。
 しかし、彼の胸に顔を押し当て、泣きながら、
(あそこで、
 あの言葉を言わなければ良かった。 
 あれをやっておけば、
 こうはならなかった。)
と後悔していた。
 真愛の反省は、身についていなかったと思う。

 文集に書かれた言葉を見て、彼の生き様を振り返ったとき、
 まさに厚洋さんの人生は、
「反省しても後悔しない人生」
だったと思えた。
 自分を曲げないが、人の思いも曲げない。
 やりたい事をやり、言いたい事を言った。
 人になんと言われようと、
「俺は俺」とあるがままを言ったし、
「お前はお前」って受け入れたし、
 最期まで、自分を貫いた。
 絶対謝ることもなかった(真愛に対して)が、病床についてから、
「俺が悪かった。ごめん。」
「お前に迷惑がかかる。病気を治さなければ」
と反省や謝る言葉が出た。
 それでも、
「煙草を吸わなきゃ良かった。」とか、
「酒を飲まなきゃ良かった。」なんて
後悔の言葉は絶対言わなかった。
 病気になったのも、苦しい思いをしているのも、「全て自分の意思でやった結果」悔いてはいなかった。
 我儘だからこそ、他人のせいにする人ではなかったのだ。

 亡くなって直ぐには、彼の生き方について考えられなかった。
 真愛を独りにして逝ってしまったこと。
 彼のいない悲しみと彼に依存して生きていた自分の弱さを嘆くだけだった。
 だが、文集の言葉を見てから、「厚洋さんの生き方」は、「いい人生だったのではないか」と思えるようになったのだ。
 そして、彼のように、彼から教えてもらったことの多いこれからの人生を「後悔しない」生き方をしようと考えたのだ。
 やりたいことはやる。
 失敗したら、反省する。
 やらないで、後でやれば良かったと思っても
時は戻せないのだから…。
 それからは、やりたい事は一応悩んでから、1番良い方法で実行した。
 当然、人がなんと言っても、
「やりたくない事」は、
やらなかった。
 やらなかった結果、悔しい思いをしても、
(後悔しない。これも縁がなかった事。
 今の幸せは、やらなかったことの上にある)
と自分に言い聞かせた。

 反省は相変わらず沢山する。
 よく見ないでオデコを打つ。
      急がないで予測してから動こう。
 面倒くさがって後回しにして失敗する。
      翌日やる事を書いておこう。
 食べ過ぎて、具合が悪くなる。
      8時以降は、お白湯を飲もう。
 書き出したらキリがない程、反省し予防策を考えた。

 しかし、結婚記念日が近づいた昨日。
「今までの出来事の全てを、反省して次に進むのではなく。」
「後悔して、悔やんでそのまま泣くことも大事なこと。」なのではないかと思った。

 彼が亡くなってからの生き方には、「後悔」はない。
 しかし、彼が生きている時にやっておけばよかったと思うことが増えてきたのだ。
 思い出を辿るたびに思う。
「あの日に、ありがとうの言葉と一緒に
        キスしておけば良かった。」
「真愛がひとりで入院した時に、
 『寂しいから会いに来て。』
           と言えば良かった。」
「2人で買い物に行った時、
       手を繋いで仕舞えば良かった」
「厚洋さんが求めるのを待つだけではなく
 『今夜も抱いて!』
           と言えば良かった。」
 自分から“おねだり”する事は、なんだか恥ずかしくて、自分の本心を言わなかったこと全てを後悔している。
 数えきれない後悔の海の中を漂流している。 

 生き方の後悔について、トーマス・ギロビッチ教授の心理学研究があるという。
 人間には、色々な後悔を、
《自分の理想や夢が実現できなかった後悔》と
《自分の決まりや義務が果たせなかった後悔》に分けて考えるらしいのだ。

a )理想や夢が実現できなかった
「理想に対する後悔」というのは、
 小さい頃つきたかった仕事につかなかった。
 片思いの人に対して何もせず諦めた。
 旅行に行きたかったのに行かなかった。
というようなもので、
 理想の自分を目指さなかったことに苦しむ後悔だ。
(真愛の厚洋さんに対する思いはこれに近い)

b)それに対して自分の決まりや義務が果たせなかった「義務に対する後悔」は、
 秘密を言ってしまった。
 親が危篤になった時に帰れなかった。
 不倫をしてしまった。
 困っている人を助けなかった。
というようなもので、
何か悪いことをしてしまった後悔だそうだ。
 真愛は、この後悔はほとんどない。

 多くの人にa)・b)どちらの後悔か尋ねたところ、72%の人が、最も大きな後悔に
《理想に対する後悔》をあげたという。
 その理由は、義務に対する後悔のほうが急いで対応しないといけない強い気持ちが起きるために、義務はたいてい果たされる。
 しかし、夢は急いで追いかけようとは思わないためにいつまで経っても実現できずに心に残ってしまうのだという。
 そうだ。
 真愛と彼が元気なうちに何度も、そうしようと
「後悔しないようにしよう」
と思ったが、
「明日は…。いつかは…。」
といつまで経っても先延ばししているうちに、彼の具合が悪くなった。

 このことから分かるのは、「生き方としては、『夢の実現に向かって、積極的に行動して行くことが、将来、後悔しない生き方】になるということなのだ。
 夢というと、自分には実現不可能な夢を思うが、実現できそうなことなら、何もしないでいるよりも、できる限り挑戦しよう。
 これが一つ目の生き方に対する後悔。

 ところが人生には、これとはまったく別の
2つ目の後悔があるという。
 ー 人生全体の後悔 ー
 人生全体となると話は変わる。
 自分の理想を追いかけたり、やりたいことを精一杯やっていれば、後悔のない人生になるのだろうか。
 真愛のような一般人から見れば、やりたい事をやり、業績を残した人でも、たくさんの後悔をして死んでいったというのだ。
(ミケランジェロ)が(秀吉)(芭蕉翁)が
臨終に際して後悔していたという。
 それは、「やりたい事をしなかった後悔」とは別な後悔なのだ。

 日頃のやれば良かったという後悔とは、違う後悔だ。それが「人生全体の後悔」だ。
 もともと命に限りがあることは誰でも知っている。
 やがて必ず死ぬのだが、どう生きればいいのか。
 生まれてから死ぬまでに何をすればいいのか。
 何のために生きるのか。
という人生全体の目的が分からないまま、
目の前の生き方ばかり考えて生きている。

 いよいよ死ぬという時に、
「元気な時に理想の自分になれなかった」とか
「義務を果たせなかったという生き方」は、
全く関係ない。
 この死が来ても崩れない本当の生きる目的を知って、それを達成していないと、
(一体何のための人生だったのか)という人生全体の後悔が起きてしまうのだそうだ。
「夢の浮き世を日長に思い 
      暮れて泣きやる 寒苦鳥」
後悔のない人生とは、
変わらない幸せになった人は、
それまでのすべてがこの世界に生み出させて頂くためであったとハッキリ感じるそうだ。

「これこそ本当の生きる目的であった」
 真愛の本当の生きる目的は、
「厚洋さんを愛すること」だったと思う。
「これ一つのための人生だった。」
 厚洋さんに巡り合い、愛し、愛し子を生み育て、厚洋さんを幸せに逝かせる人生だった。

 彼がいなくなってからは、
「厚洋さんに育てられた力を持って人のために使い、死んで厚洋さんに会った時に褒められる人生だった。」
思いたい。
 この思いは、
 それまで生きてきた全てを喜ぶことができ、感謝することができる。
 無駄なことは何一つも無く。
 無駄なことをしてきたとか、回り道をしてきたという後悔も無い。
「我が人生に悔いなし」
という限りない喜びの身になると思う。

 本当の生きる目的を達成したとき、
一切の苦労は報われ、過去に後悔することは絶対にないのだ。
 厚洋さんは、
「俺はこの人生に悔いはない。」
と何度も言ってくれた。
 真愛と出会って結婚したことも、喧嘩もしたけど、病気で苦しんだけど、
「お前と一緒でよかった。」
と言ってくれた。
「真愛も、厚洋さんのお嫁さんで幸せだった」と伝えた。

 だから、真愛も自分の臨終に際して、
「一度きりの人生、悔いはなかった。」
と言いたい。
 小さな細々した思い出を辿って後悔し、
「やっておけば良かった。」
「ごめんね。厚ちゃん。
 もうやってあげられないけど、
 そのかわり今日はnoteに
 あなたの事を書くね。」
と謝罪をしている。(謝罪より惚気だ。)
 厚洋さんは、どこかで、いや、
真愛の右肩で
「相変わらずだな。」
って笑いながら、許してくれていると思う。



ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります