見出し画像

子育てパニック 挨拶の言葉

 挨拶とは何のためにするのだろうか。
 喫茶店でnoteを書いているのだが、お客様が帰り際に「ご馳走様!」っていう人がいる。
 気持ちの良い喫茶店である。
 ファミリーレストランの帰りにお会計をして「ご馳走様でした。」っていうだろうか。
多くの人が言わない。
 今日韓国語を教えているキーズの先生にあった。とても憤慨していた。
「挨拶をしないのよ!
 バッカじゃない?変だと思わない?
 間違っているでしょ!」
 人の顔を見ても「今日は」も言えないのだという。
 国際交流協会の事務室を使って、日本語を外国籍の方に教えるボランティアならば、日本の良き風習を教えるべきであり、教えるなら自分も実践せよという事だ。
 正論である。
 しかし、我が愛しの厚洋さんはその「挨拶」が出来なかった。
 元々、人の顔を見て話すことなんてできなかった。
『真愛をお嫁さんにしたいです。』
と母や兄の前で言いに来たはずが、しっかりとした挨拶はなく、兄と雑談をして帰って行った。
 それを見た母は激怒し、挨拶もできず、人の目を見て話せない男なんて、ろくな奴ではない。あの男と一緒になるなら勘当であると言った。
(結婚して厚洋さんの本当の優しさを知った
 母は「娘よりずっと厚洋さん」と言った。
 如才なく振る舞える男より、無骨であるが
 本当の優しさを持っている真の男が良い)

 今思えば、彼の異常な恥ずかしがり屋は何らかの精神疾患だったのかもしれない。
 結婚してから、初めて彼の研究授業を参観しに行った。先輩でもあり、指導教官だった好きな人の指導ぶりを見たかったからだ。
 全国道徳教育研究大会の公開研究会。
 大勢の参観者が来ていたが、若かった彼の教室には2、3人の参加者しかいなかった。
 真愛が教室に入った途端、厚洋さんは黒板の方を向いて話し始めた。
 黒板に向かって発問しているのだ。
 子どもには何を言っているか分からない。
 真愛は、急いで部屋から出た。
 何が原因か分からないが「恥ずかしい」のだということは分かった。
 同僚の栄先生の教室に入ると参観者がいなかった。栄先生は
「おっ!
 元気か、見に来てくれたか!」
と発問をすっぽかし教壇から降りて来た。
 同じ教員でもこんなにも違うのだと思いびっくりしたのを覚えている。
 帰って来てよく聞くと
「俺は子どもの顔を見て話ができない。
 人の目を見て話すのができない。」
「あら!
 私の目はちゃんと見られているのにね?」
「そうだな!
 お前は人間じゃないかも?」
 こんな人だったから、結構な年齢になるまで知らない人に「挨拶」するなんてことは出来なかった。
(大勢の前で、講演をするのは平気だった。
 きっと、かぼちゃが話を聞いていると本当に
 思っていたのだろう。)

写真も嫌い

 古来より、生物的には群れから離れると生存の可能性が低くなるので、何とか群れの中に残っていたいと努力する。
 ところが、他人から嫌われたり、ルールやモラルに反する行動をとると群れから追い出される。
 そこで、他人から嫌われることやそのように思われていることに「恥ずかしさ」という感情を持つことで、その危険性を減らそうしたという。
 つまり、「恥ずかしい」という感情は、
自分が属している社会やコミュニティーから排除される危険があると認識する一種の自己防衛本能なのだそうだ。
 厚洋さんのような人は、昔は対人緊張症とか対人恐怖症・赤面恐怖症・自然恐怖症なんて言われていたらしい。
 しかし、最近では性格の問題ではなく、脳の問題なのであると言われ始めている。
 これは、「社交不安障害」という脳の病気なのだ。
 原因も治療法も解き明かされつつある。
 その原因の一つに「親からの遺伝」と言うのがあった。厚洋さんのお父さんも寡黙で恥ずかしがり屋でよく似ている。

割れ鍋に綴蓋

 だから、義母さんは、真愛と結婚してくれて良かったといつも言ってくれた。
 厚洋さんのおばあちゃまの米寿の会とか、親戚が集まる時には、我が家を代表して真愛がご挨拶に回った。
「愛想が良く」「挨拶が上手い」真愛は、「良い嫁だ!」と褒められた。
 さて、前述の先生のお怒りもごもっともなのだが、こんな人もいるという事を知っていて欲しいとも思う。

 小学校3年生の教科書に「挨拶の言葉」という説明文があった気がする。
 それを指導するまでの真愛は、「挨拶」の意味がわからなかった。
 母から、教師から、
「挨拶をしなさい!」
と教わっただけで、その意味は知らなかった。
 原文を見つけられなかったのでうる覚えで記すが…。
『日本文化いろは事典』によれば、
「おはよう」は「朝早くから、ご苦労様でございます」の略で、朝から働く人に向かって言うねぎらいの言葉だった。
 同様に、「こんにちは」は「今日は、ご機嫌いかがですか」などの略で、お昼に初めて出会った人の体調や心境を気遣う言葉。
「こんばんは」は「今晩は良い晩ですね」とか「今晩は、夜遅くまで大変ですね。」などの略だと言われる。
 そして、「さようなら」は「左様ならば」の略のようで、「それならば私はこれで失礼いたします」のような意味らしいとのこと。
「ありがとう」は「有ることが難い(極めて珍しい)事を神に感謝する言葉と言われる。
 いずれにせよ、後半が省略された現代のあいさつ言葉は、それ自体では意味不明の言葉であるが、そのルーツを辿ると、挨拶には「他人を思いやる心」が含まれているのだ。
のようなことが書かれていた。
「挨拶」とは、かける方が、相手を思い遣っているということなのだ。
 だから、挨拶されないというのは、
「あなたは思いやられていないということ。
 あなたのことが好きではないのですよ。」
とも考えられる。

ニャンコの挨拶

 挨拶は「お互い安心するための符丁」だから、「意味が通じなくてもそれでいい」やることが大事って考え方もある。
 なぜそんなことをしなければならないかというと、
「人間は唯一、感情を隠せる動物だから」
「犬や猫は腹が立っている時は必ず顔に出る
 のでそれを見て判断できる。」が、人間は「顔ではニコニコしていても
 腹の中はムカムカしていて、
 通りざまにゴンと一発やったりする
 可能性がある」
 だからこそ、
「少なくとも、あなたの敵ではありませんよ」と伝えるために、挨拶を交わすのだという。
 つまり、相手の警戒心を解きほぐし、安心感を与えるのが挨拶というのだ。

お辞儀

 日本人の挨拶も対面交渉の前後に行われる応対方式であって、通例伝統的に形式化した「ことば遣い」に特定の「身ぶり」を伴う。

挨拶の「挨」は押す、「拶」は押し返すの意で、本来は禅僧の「知識考案」における「受け答え」をさす語で、それが一般にも通用するに至ったもの。
 国語では古くから「物言い」あるいは「ことばをかける」「声をかける」などと言い習わし狂言において応対文句に「何と」「物と」とあるのも同趣である。
 こうした応対方式は有職(ゆうそく)故実の「礼式」などに定型化されて伝存するが、むしろ民間一般の習俗が重視されるべきで、地方性と職業に従ってその様式は多様を極め、また時代による変遷も顕著である。
          [竹内利美氏の論から]
以下も竹内氏の論からである。

 挨拶の方式は「仲間内」と「仲間外」の別があり、また日常時(ケ)と特定の改まった場合(ハレ)とでは大きな違いが生ずる。
 日常の挨拶ことばは、天候や仕事の進度など共通の関心にかかわる「形式的用語」であり、季節や時刻で異なる。
 早朝のオハヨウは一般的であるが、このほかオヒンナリ、タダイマというような地方的用例もいろいろある。
 日中のコンニチハにも、オセンドサン、ゴショウダシなど、相手の働きぶりを褒める意味の挨拶ことばを用いる地方もある。また、オアガリ、ノマンシタカなど休息、食事にかかわるものや、オツカレ、オバンデ、オシマイナなど夕刻の挨拶には労働のねぎらいを示すことばが多い。
 夜のオヤスミも同義で、オイザト、ダッチョ、ザットヤーなどの方言には「目ざとくあれ」という古意が残っている。

 他家訪問や初対面の応対にも定型の用語があり、これらもまた地方的、職業的に特殊化した例が少なくない。
 ウチナ、イラシンスケなど家人の在否を尋ねる形から、
 オユルシナ、ゴヨウシャなど、今日のゴメンクダサイと同意の語が多く用いられ、
 さらに形式化してハイット、ヨイト、オイロンといった簡略語も生まれた。
「物申(も)う」も簡略語の旧形で、現在は電話応対のモシモシに名残(なごり)をとどめている。
 サヨナラ、ソンナラという「別れことば」も多岐にわたり、マタナ、オミョウニチ、コンドメヤ、ソンデハマタなど再会を約す意味のものが多い。
 仲間内の日常挨拶ことばは簡略化が進み、まったくの符丁と化したものも珍しくはないが、それでも仲間関係の確認には足りるのである。
 正月礼、盆礼、節供礼や吉凶の訪問には、改まった慣習的挨拶ことばがあり、所によっては「口上書(こうじょうがき)」を伴う古形式さえ残っている。
また、「仲間入り」の挨拶は職業によって違うが、おおむね重々しく、いわゆる「披露」の挨拶ともなると多分に様式化されるのを常とした。
 歌舞伎(かぶき)役者の「披露口上」などはその典型であり、また「やくざ仲間」の「披露」もものものしく、別に仲間外挨拶として「仁義をきる」という作法様式も生じた。
 一般に挨拶には呪術(じゅじゅつ)的祝福の意を伴うことが多いとされているが、日本の場合はそれが希薄で、わずかにトウデヤ、アリガトウなどの「礼ことば」に神仏をたたえる意が若干残る程度である。
 挨拶の「身ぶり」は多様で、日常の場合は簡略化されたものの、特定の席ではさまざまに様式化した。
『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』によれば、下戸(げこ)が大人(たいじん)に会うと退いてうずくまり、両手をついてかしこまり、「噫(あい)」と返答するとか、あるいは公の場にあって大人の礼拝に両手を打って応ずる、とある。
 これは古形を伝えるものだが、少なくとも日本においては「頭を下げる」ことが伝統的様式であり、立礼と座礼ではその様式も異なる。
とくに「ハレ」の席の座礼にあっては、扇の使用によってさまざまの形を生み出すことにもなった。
[竹内利美氏の論から]

パパありがとう!

 恥ずかしがり屋の厚洋さんも息子には
「ほら!ご挨拶して。」
と言っていたのが面白い。
 彼の中の挨拶は、心を伝え、心を通わせる手段だったから、近しい人にしか出来なかったのだ。
「行ってらっしゃい!」
と、真愛のハグとキスは結構嬉しそうに返してくれた挨拶だ。
 アイヌの人たちの遠来の客に対して使うアイヌ語
「こんにちは(イランカラプテ)」は、一語ごとに区切っていくと、
「あなたの心にそっと触れさせてください」
という意味になると聞いたことがある。
 北海道・厚岸で生まれた厚洋さんには、その思いがあったから、恥ずかしそうに、優しい挨拶をしてくれたのだと思う。
 相手を思いやることなく、機械的な挨拶をして、身の安全を図らなければならなくなった昨今を悲しいと思ってしまった。

いただきます

 さて、「ら子育てパニック 挨拶の言葉」で書きたかったことがもう一つある。
 厚洋さんの話は棚に上げておいて、親にとって子どもの人間関係は心配ねものである。
 あんな厚洋さんでも息子には「ご挨拶は?」というように、人との付き合いのコツとして身につけておいた方が良いことなのだ。
 社会の中での人付き合いの技術(スキル)のことを「ソーシャルスキル」という。
 スキルとは、繰り返し練習すれば誰でも身につけられる事ということだ。
 人付き合いの上手な人と苦手な人との違いは、性格の違いでは無く「人付き合いのコツ」が身についているかどうかなのだという。
 真愛と厚洋さんの違いである。
 良好な人間関係を築くための第一のコツ
⭕️自分から挨拶をすること。
 挨拶をされた人は、「自分は拒否されてい
 ない。」と感じるためその後も
 話しやすくなるという。

「おはよう」「ただいま」「ご馳走様」など日常の様々な場面で挨拶があり、それができないだけで人間関係に躓くキッカケになることもある。
 まず、親がお手本を見せよう。
 朝起きたら「おはよう!」と言い合うと気持ちが良いことを教えることだ。
 食事の前に「頂きます。」
 厚洋さんは「命を頂くのだから…。」とちゃんと教えていた。
 食事の後の「ご馳走様でした。」も。
 しかし、「美味しかったからまた作って。」なんてことを教えないから、作った人への思いが足りないのだ。そこは如才ない真愛は、
「美味しい。パパの作ったチャーハンは最高」
なんて言っちゃうから、厚洋さんがどんどん料理を作ってくれるようになった。
「人付き合いのコツ」というよりも、旦那の手綱の掴み方である。笑笑。
 あいさつ以外でも、
「感謝する」「話を聞く」「質問をする」と言ったスキルはコミュニケーションの基本でもあるので、小さい頃から繰り返し練習して身につけさせたいものだ。
 身に付けさせたいソーシャルスキル
🟢感謝するスキル
 相手を見てはっきりと笑顔で届く声で
 嬉しい気持ちを伝える
(厚洋さんは真愛には言えたのになぁ。)
🟢話を聞くスキル
 相手の方を向いて作業をしている手を止めて
 相手の目を見て頷いたり相槌を打ちながら
 相手の話を最後まで聞く。
(厚洋さんは真愛にはしてくれたのになぁ。
 そんな優しさにほだされたのに…。)
🟢謝るスキル
 頭を下げる。本当に悪いと思う。
 こりゃスキルで、
(申し訳なさそうな顔をする」
「まずごめんなさい。」
 なんて教えたくない。
 相手の反応を見ながらうまく謝るなんて
 スキルを学んでしまったら「嫌な奴」
 になる気がする。
🟢質問するスキル
 相手に質問をして良いか確認する。
 具体的に質問する。
 お礼を言う。
 自分のための情報収集なのだから、相手のことを思いやらないと答えては貰えない。
 日本一質問の上手な人は、「杉下右京さん」だと思う。
「すみません。
 最後に一つ宜しいですか?」
 この質問が事件解決の切り札となる。

人間関係

 挨拶の言葉とは、人が人社会の中で生きるための「人付き合いの基本」の声かけなのだろう。
 だからこそ、好きな人には心を込めて、挨拶をすることになる。


ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります