野菊 音楽の思い出
「野菊」という歌をご存知だろうか。
野菊は蜻蛉を休ませる優しい花であり、霜が降りても負けない「明るい花・薄紫の花」なのだ。
週に3回、歩いてゴミ捨てに行く。膝が痛い真愛は、ウォーキングとやらができない。買い出しも、プールに行くのも、お墓参りも全て車で出かける。
折角の山の中に住んでいるのに、大好きな山野草を探しながらの散歩ができない。歩く速さで景色を見るのは、ゴミ出しのときぐらいだから悲しい。
今朝のゴミ出しの帰りに、我が家の土手に野菊が群れなして咲いていたのを発見。
今年の夏は、「ホタルブクロ」が少なくちょっぴり寂しかったのだが、草取りの際に「これは野菊の葉っぱかもしれない。大事にとっておいて、花が咲くのを確かめよう。」と思った植物だった。
正しく「野菊」→「野紺菊」だった。
↑これも、群生していたが、こちらは、「ヨメナ」通称野菊だが、この歌のような薄紫色ではなく、「白い花」である。
この「野菊の歌」は、真愛が初めて人前でドキドキして歌った歌だ。合唱部に入れてもらうために「入団テスト」の歌だった気がする。
真愛の歌の記憶は、母の子守唄だ。しかし、母以外から得たうたの初めは、「浜千鳥」。
四つ年上の兄の事で母が学校に行った時に、兄の先生が貸してくれた童謡の本の中にあった歌。絵が美しかったのと寂しげで
「親を探してなく鳥の…。」のフレーズが、真愛の境遇に似ていたので、すぐに覚えた。
3歳の時だ。保育園にも行ってないのになんて賢かったのだろう。(今は、そのカケラすらない。)
さて、真愛も小学校に入り、既にアホっぽくなっていたが、音楽は好きだった。
小さい頃は、声も可愛く綺麗だったようだ。だから、先生が「やってみないか。」と声をかけてくれたのだ。
その時の歌が「野菊」だ。
当然の如く、その歌詞の美しさに惹かれて夢見がちな(現実逃避)真愛は、自分に重ねた。
「気高く・優しく・明るく」美しい「薄紫色の花」でありたいと。
当然、思春期に入ると「君は野菊の花のような人」「貴方は竜胆の花。」のような恋に憧れた。(野菊の墓・伊藤左千夫作)
小学校の456年の音楽の先生は、関口先生。
腰の細いすらっとした美しい先生だった。 ピアノを弾いている姿が美しく、授業の中身は覚えていない。
「さあ、みんなピアノの周りに来て歌って。」と言われるのを待って先生のそばに行った。
先生からは良い匂いがした。ずっと吸い込み続けて苦しくなった事を思い出す。
更に、真愛はエッチな子だったのかもしれない。先生のウエストに手が触れるとドキドキしたし、手を繋いでもらったり、先生に「いい子ね。」なんて言われて頭をぽんぽんと触られると卒倒しそうだった。
当然。音楽の時間は大好きだったし、頑張った。しかし、お金がなかった真愛の家にピアノなんてあるはずもなく、持っているのはハーモニカだけだった。
階名が分からなくても、感覚だけで沢山の曲を演奏できたことが楽しかったひとつかもしれない。
学校の唯一の部活動「リード合奏団」に入らないかと言われたが、遠征費や衣装を考えると母にはいえなかった。
講堂から聞こえて来るリード合奏の曲を聴きながら、大きなプラタナスの木の根元で本を読んでいた。夏になると講堂の下窓が開くので、そこから覗き込んでいた時もあった。
30cmぐらいある大きなバスハーモニカを吹いてみたかった。
講堂にあるのはグランドピアノ。音楽室にあったのはアップライトピアノ。どちらも鍵が掛かっていた。
どうしてもピアノに触りたかった真愛は、音楽室の廊下側の木の下窓から忍び込んだ。
最初は、ピアノに触るだけで満足した。
次は、椅子に座って弾くまねをした。
その次は、何とか鍵を開けようと試みた。数回チャレンジしたが、開かない。真愛の賢さ?が、開け方を発見した。ピアノの鍵は単なるフックのような物。ピアノの蓋の隙間に下敷きを入れ、強い力で左に左ライドさせると開けられるのだ。
悪い事だとは分かっていたが、2、3回ピアノの鍵盤に触れた。そして、「先生のように弾けたら…。」と夢見た。
真愛の思い出は、本当にドラマと同じだった。次に忍び込み、鍵を開け、「即興曲」を弾いていたときに、先生が入ってこられた。
悪い事をしていること。変な曲を弾いた事。何よりも「大好きな先生」に見つかった事。 恥ずかしいだけでは表現できないバツの悪さ・「嫌われた」の思いで、泣くことも出来なかった。
しばらく沈黙が続いた。私の「御免なさい」の前に先生は、
「ピアノ好き?」
といつもの優しい声で聞いてくれた。ひたすら黙って固まりながら、首だけ「うん」と一回振った。
「そう。黙って入るのはいけない事。今度から先生に言ってね。」
初めて「御免なさい。」と声が出た。先生は、「今ね。練習している曲があるの。」と言って弾き始めた。
何という曲か分からなかったが、悲しい・優しい曲だった。(後にタイスの瞑想曲だったと知りました。)
ここまでは、ドラマチックなのだが、音楽の才能がない真愛は、ピアノも上手にならず、教員になるための「バイエル」止まり。
教員になって、音楽は好きだったが、才能が無いため「全ての楽器」が中途半端で終了。
しっかりやれていたのは、厚洋さんの協力や周りの人の支援と子供達の能力のお陰で、「合唱指導」だけだった。
ドラマチックな思い出話ではなかったが、真愛の音楽への扉を開けてくれたのは、この「野菊」と「音楽の先生」だったのかもしれない。
このnoteを読まれている方の中にも、必ずあるはずです。自分と音楽との出会いの物語が…。
どんな時代もでも、どんな世の中になっても、人の心には、「音」「音楽」が存在するのだと思っています。
生きている事の証は、「心臓の鼓動」
それが原点なのかしら?
今では、ハーモニカを吹くのは良いが、吸い込む時にホコリまで吸い込みそうで使わない。
やや切なくなった。