七十にして矩を踰えられず
生きて来た。
たくさん生きて来た。
昭和・平成・令和と生きて来た。
そろそろ愛車に四葉マークを
付けなければならない歳になるまで
生きて来た。
大好きな厚洋さんが彼方に逝った歳に
近づくほどに生きて来た。
生き過ぎるくらい生きて来た。
中学校か高校で真面目に漢文の授業を受けたのだろうか、その年代になる度に孔子様の「論語」の一節が巡るのだ。
【子曰、吾十有五而志乎学】
子曰く、吾十有五にして学に志す。
先生(孔子)はおっしゃいました。
「私は15歳のときに学問を志し始めた。」
思い起こしたら、私は15の時に「論語」を思い出していない。前言撤回!
15歳中学校3年生の時は、学に志すのではなく(やらんとあかん。みんなが高校に行くのに
私だけ、中学校卒業で就職するのは恥ずかしい。)と思っただけのことだ。
「学びたい」と本当に思ったのは、もっともっと後の話だ。
【三十而立】
三十にして立つ。
30歳になったときに独り立ちをし、
真愛、30歳。厚洋さん36歳。息子6歳。
旦那様と給料を入れない事を約束してしまった真愛は、結婚してからも生活費が足らなくなると母に借金をした。
「ボーナス入ったら返すからね。」
違法闇金融機関が出始めな頃だったが、手を出さなくて良かった。母には
「あんたのは貸しくだされだからねぇ。」
と言われたことを覚えている。
しかし、厚洋さんは不惑の年に自分で土地を買い・家の図面を引いて、家を建て、真愛の母も一緒に住まわせてくれた。
母と厚洋さんが仲が良かった。
(どちらも思いやっていてくれたのだ)
30才で自立しなければいけないのに、自立していなかった。当時は、虚勢を張って『私は自立してます!』って言う顔をしてた。
【四十而不惑】
四十にして惑わず。
40歳になったときには惑わされることが
なくなった。
確かに「惑う」ことは無くなったが、それは、身の程を知らない無知故の突っ走りであり、知恵や経験に裏付けされた「不惑」ではなかったのだ。
子どもが成長して母親の手を離れ、収入も安定して好きな事をやり放題だったのが、40代だったと思う。
早く結婚して、早く子育てをして、みんなが遊んでいる時に家族に尽くしていたのだから、その分遊ばせて貰うなんて、変な持論を心の底で思っていた。
厚洋さんは、そんな真愛を彼の掌の上で転がしていた。
【五十而知天命】
五十にして天命を知る。
50歳のときに自分の天命を理解し、
「天の命令」とは、天が人間に与えた使命。
50歳の時も教員をしていた。
良い教え子にも恵まれ、厚洋さんの支援もあり、充実した教員生活の最後を迎える年代に入っていた。
不惑の年代に「惑いの海」に飛び込ませてもらったおかげで、全国教育研究集会に何度も参加させてもらい、地区での真愛の教員としての名も上がった。
国語人でもあり、体育・表現ダンスの指導者でもあり、特別活動・文化活動と情報の実践家でもあり、合唱もリコーダー合奏もコンクールでちょっとした賞を貰える指導者になっていた。
しかし、教員が「天命」であるとは、思えなかった。
もっと他の…。
人に何かを伝えることが本当に楽しく、伝えられることが幸せな事だと思えるようになったのは、教員を辞めてからである。
【六十而耳順】
六十にして耳順う。
60歳のときに
ようやく人の意見に素直に耳を傾けられる
ようになった。
確かにである。
この歳になって、漸く孔子様のいう事が分かるようになったのだ。
教員として、肩肘を張ることもなく「そうだね。」と素直に言えるようになった。
それと同時に、今までの自分の愚かさに気づくようになり、教えてきた子どもたちやもう謝れない亡き母に申し訳なさで何度も後悔した。
そして、大好きな夫・厚洋さんを失い、人生で一番切なく、悲しく、虚しく、苦しく、
「生きている意味」を失った。
不摂生をする旦那様だったので、具合が悪くなるとは思っていたが、
「死」
「真愛の側からいなくなる。」
「ずっと会えなくなる。」
「話せなくなる。」
全ての否定を理解することができなかったのだ。
そして、真愛がどんなに厚洋さんを愛していたのかという事実。
真実という矢で射抜かれてしまったのだ。
それから、5年が経つ。
【七十而従心所欲不踰矩。】
七十にして心の欲する所に従えども矩
(のり)を踰えず(こえず)
そして70歳になって、
自分の思うように行動をしても
人の道をはずすことはなくなった。
漸く本題である。
孔子様のいう通り!
と言いたいところだが、原文を書き直さなければならないと思ったのだ。
自分の心の欲する所に従えども
この部分に注意だ。
70歳になると体力が衰える。
細胞が成長するのはせいぜい二十歳ぐらいまでだと思うし、全てが長い間使われ続けているのだから、みんなガタが来ている。
厚洋さんは
「年と共に性欲・食欲はどんどん衰えるが、
《学ぶ力》知識欲は死ぬまで持ち続けられる」
と笑っていたが、
知識欲だって人生を楽しんでいなければ持ち続けることはできない。
自分の心が欲する所に従えない自分がいるのだ。
「やりたくてもやれないよ!」
遣れなければ、矩を踰えることだって
できない!
要するに、矩を踰えられない!
だからこそ、
このnoteをお読みの若者諸君
60代までの方々。
自分の心の欲する所に従えるうちに
やりたい事をやりなさい!
矩は人として相手を思いやれば踰えることもないと思われる。
若いうちに大いに人生を楽しみなさい。
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります