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愛しい人が逝って    1433素数日

 後1ヶ月も過ぎると、愛しい人の祥月命日になる。大好き大好きと泣きながら書いた本は、3年の契約が切れた。
 三年日記も最後の段の後半だ。
 もう、厚洋さんが闘病中の「愛してる」を書き殴っている文字は見られない。
 厚洋さんが買ってくれた三年日記の1冊目の中段の8月が「命懸けの恋」の真っ最中だった。納戸から引っ張り出して開いてみたが、読み進められなかった。
 もう4年が過ぎるのだ。
 四十九日までは、厚洋さんの後を追いたくて、息子や厚洋さんの同僚に迷惑をかけた。
 あの年の今頃、厚洋さんへの恋心は埋み火に証文紙が乗せられたように燃え上がって、出会った若い日よりも激しかった。
 毎夜、厚洋さんが恋しくて悶えた。

病院の夜 彼の隣で

【わが夫を先に送れし幸せを
     今日もつくづく思い返せり  
           福井県 一島保子】
 先日の新聞歌壇に載っていた和歌だ。
 今でも厚洋さんが好きで、恋しくて泣くこともあるが、その度に思うようになった気持ちに良く似ている。
 もしも、彼があのまま病院で入院中だったら、私は嫌な人間になったと思う。

 コロナ禍で会えず、厚洋さんはもっとイライラしただろうし、真愛は汚い言葉で返答をしたかもしれない。
 愛だの恋だのそんな思いにはならず、プールでよく聞く
「お父さんが五月蝿くて、いっしょになんか
 居られない。
 ご飯食べさせなくちゃ行けないから、
 早く逝ってくれないかしらね。」
という会話に同意していたかもしれない。
 そうならなかっただけで、幸せなのだ。

 逆に厚洋さんが逝くのではなく、真愛が先に死んでいたとしたら、厚洋さんはあの頃のように格好良くダンディーなまま生活していただろうか。
 元々肺気腫を持っていたし、真愛が居ても居なくて深酒をしていたのだから、ぐずぐずの生活になっていたのかもしれない。
 偉ぶる相手の真愛が居なければ、掃除も洗濯もしなくなったのかな?汚い部屋になったのかな?
 厚洋さんの姿を憐れんで、教え子の可愛い子が世話をしにきたのかな?
(それはそれで、安心もするが焼き餅焼きの真愛は、あちらで気が気ではないだろう。)
 真愛のように亡き夫の事を「大好き・大好き」って1433日も思い続けてくれるなんてしない。
 いや、もし、真愛を思い続けてくれて、真愛と同じ辛い思いをするのだったら、あちらにいる私は悲しくてやり切れない。
(やっぱり、貴方が先に逝き、私がずっと思い続ける方が良かったのかもしれない)と思うようになってきた。

 時の流れと忘却の能力が悲しいが穏やかな心にさせてしまう。
 あんなに大嵐の暗黒の海が、穏やかな青空と涼やかな風と歌いあっているようだ。
 一日に何度か、厚洋さんを思い出してウルッとくるのはあるが嵐にはならない。

そばを飛んでくれると言っていた。


【われのうた褒めくれしこと無き妻よ
       汝がうた多く作りたれども
            福岡県 川上健吾】
という和歌も見つけた。
《真愛の詩を褒めてくれしこと無き夫よ
        君の詩歌多く作りたれども》
である。
 二人とも元気でいた時には、厚洋さんは真愛の詩歌や絵を褒める事がなかった。
 しかし、残りの命が分かった厚洋さんは、ひとり残していく真愛を心配してくれたし、自分がいなくても「真愛の生きる目的」を何度も何度も確かめさせた。
「お前の描く白い花の絵が好きだ。」
「元気になったら、二人で共著を出そう。」
「日本画を描くのも良いね。」
「俺は、お前の笑顔が好きだ。
 コロコロ笑う真愛でいるんだぞ。」
 そして、トドメを刺された。
「俺の愛する女は、生涯、お前ただ一人!」
 狡いと思う。

大好きだよ❣️

 素数日に、心震える生き方を読んだ。
 その人の生き方に感動したのだ。
 新聞に紹介されていたしづさんは、平易な言葉で話しているのに…。
  ただリモートで“団結”の二文字を見せるだけで、多くの人を感動させる力があるという。
 しづさんは、語る。
「103歳だからよ。」
  8月20日の新聞、いつもは読まない
“ブラボーわが人生”   の掲載記事だった。
茨城県つくば市・
     櫛渕しづさん (103歳)
「天」と記す記者さんの100回目の記事だった。
 しづさんは、大正8年2月26日生まれ。
 この年代が真愛の興味を誘った。
 私の母は、大正5年5月30日生まれである。
 3年の違いはあるが、母が生きていたらという思いが読ませたのかもしれない。
「バカでもマメならようがんす」
との大見出しも、彼女の103年の語りを聞きたいと思って読み進めることになった。
 母と同じ時代を生きた女性は母の声になって聞こえてくる。
「私はおぺしゃ。顔はぺしゃんこで、
 顔が悪くて愛想なし。背はちっちゃいし、   
 どうしようもないよね。全く。
 よく嫁にもらってくれたね。」と言う。
 生まれは新潟県信濃川のほとり。
 貧乏で米粒は数えるぐらい。
 で、ナッパやら大根やら山の草とって食べた
 粗食のおかげだね!
 103歳になったんだもん。
 ありがとうございますッ!」
とおっしゃる。
 母はよく
「真愛はおぺしゃだから、心は美しく!」
といった事を思い出す。
 我が家の貧乏生活とも重なる。
「粗食が長生きをさせてくれる」
って言う母や厚洋さんの言ったことも重なる。 
 自分と重なったり、愛しい人の言葉と重なるから、さらに読む。
 当時の大正・昭和初期、7人兄弟の長女が学校に行きたくてやったこと。
 それは赤ん坊をおぶって学校に行く。一里の山道を歩いて!
「昭和の時代は色々あったねえ。
 主人は戦争で死んじゃった。
 戦争,戦争…。無駄なことをしたねぇ…。」
と語る。
「小さな子供を抱えてどう生きたら、良いか分かんなかったですよ。」
 母もそうだった。
 それでも「生きる道」を見つけていく。
 彼女の父親の口癖。
「バカでもマメならようがんす。」
 しづさんは言う。
「私はバカだけど、バカはバカでも
 バカ正直だと思ってる。とにかく人に言わ
 れたことを素直に「そうですね。」って、
 大正8年2月26日生まれ!
 よく生きたねえ。
 ああ、楽しい人生だ。
 今思うと、なんかの映画を見ているようだね
 感謝、感謝!」
 心震えるほど素晴らしい方だ。
 彼女のお父さんも素敵な人だと思う。
 103歳にもなると、自分の人生は映画のようになるんだろう。
 たかだか64歳で「命懸けの恋」をした時にも“まるで映画だった”と思えたのだから…。納得する。人の人生そのものが映画なのだ。
 さだまさしさんの「主人公」みたいだ。
 真愛もしづさんも主人公だったのだとつぐつぐ思う。
 厚洋さんは、
「真愛は、バカ正直。
 素直なところがいいんだ!」
って、誰かに話したらしい。
「反論する前に、まずは全ての話を聞け!
 それから、もう一度考えろ。」
 これは、教育実習生の頃の真愛に指導教官の厚洋さんが言った言葉だ。
 素直な髪が好き、素直な返事が好き、素直な笑顔が好き、素直な思いが可愛らしい…。そう厚洋さんに言われて、素直なお婆さんになったと思う。
 厚洋さんのいつも言ってくれる
「そうだな。」
と認めてくれる言葉のおかげで…」
 しづさんが、それらの思い出を感謝の心で思い出せる。真愛も同じように感謝の思いしかない。二人とも今が幸せだと思う。

「主人は、『しづー。しづー!』って、
 私を心配しながら、戦争で死んだって。
 だから、私は目を瞑るまで…。
 主人を安心させたいの。」
 ここまで読んで、涙は止まらなくなっていた。
 1433日、素数日に出逢った新聞紙面の人「櫛渕しづさん」。
 103歳になっても、ダンナ様を思い続けられることを教えてもらった。

お仏壇に供えていたら白くなった桔梗

 ここ最近、愛しい厚洋さんに対する想いが、四年前より少なくなっている気がして心配になり、切なく思っていたので、厚洋さんが読ませてくれたのかもしれない。

〔真愛にも出来るぞ。)って、思えた103才の言葉である。

 取材後記まで読んでしまった。
《しづさんは、「威風堂々」の歌を歌って
 くれた。右手で節を刻みながら楽しそうに
 歌っている。
 居住まいを正して手拍子を送った。
 歌声にはいろんな思いが込められている
 ような気がした。
 戦争・貧乏。そして、負けじ魂。
 しづさんは、それこそ「威風」も「堂々」と 
 両手をパッと広げて歌を締めくくった。
 〔何か気の利いたことを言わなきゃ)
 と思いながらも、ただ拍手を送り、
 うんうんと頷くしかできなかった自分の
 ことを〔へっぽこ記者だなぁ。)
 と思ったのはこれで100回目!》
とペンを置く。
 素晴らしい人と出逢って、素晴らしい言葉を紡ぐ、素晴らしい新聞記者さんだと思った。

 厚洋さんが逝って1433日めの素数日。
 やっぱりいい日だった。


ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります