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寒中の春 お弾き染め

 山中湖に映った逆さ富士は、見事な「赤富士」だった。その翌日は、「寒中の春」。
 部屋の中にいるより、外に出ている方が暖かい。やや風が強いのが難点だったが、日本晴れの良い日だった。
 午後から、生田流のお師匠さんの「お弾き初め会」がある。
 このコロナ禍・緊急事態宣言が出てしまい、どうなるのか心配したが、できる限りの安全を確保して「開催」に望んだのだ。


 お師匠さんも、真愛も今回の開催については、いつもと違う思い入れがある。
 昨年、最愛の旦那様が急逝された。
 「さようなら」も言わず、西行法師のように逝ってしまわれた。
 亡くなる二月前、
「来年の一月にコンサートするから…。
 これが最後になるかもしれない。」
と旦那様にお願いしたという。
 
 潤子先生は、お師匠さんと言っても「サボり屋の真愛」が2年ほど通えたお琴の先生だ。
 我が街の「教育プロジェクト」で、「和楽器体験・各小中学校にお琴十数面と指導者を数週間単位で巡回させ、その楽しみを味わわせたい。」というのがあった。
 高校の頃に「宮城道雄さんの“瀬音”に見せられた真愛は、ずっと習ってみたい楽器の一つだった。
 折しも、その夏の音楽部会の研修会が「お琴の体験」だったので、全くわからないのに出向いていった。
 その時の講師先生が潤子先生だった。
 お話も物腰も優しくって上品で、真愛の理想の「箏曲演奏家」だった。
 家に帰って、厚洋さんにいうと
「そんなにやりたいんだったら、習えば?
 まっ。
 お弟子さんにしてくれないと思うけど。」
と言われたのを思い出す。
 なんでもやりたがるのに、続けかないのが真愛だからだ。
 しかし、小さな学校に着任し、少ない人数で音楽会に出場させ、自信を持って演奏させるためには、「他校と比べられない演奏」が必要だった。
 それは、「箏」を伴奏に使う事だった。
 厚洋さんもその考えに大賛成してくれた。
 そうなるとお調弦もできない真愛なので、恥ずかしさをかなぐり捨て、お願いしたのだ。
 先生は笑いながら
「いらっしゃい。待ってます。」
と言われた。
 ところが、真愛のお稽古態度は良くなく、お稽古の仕上がりを見ていただくより、学校の話を聞いて頂いたり、演奏会の企画を相談したりだった。
 先生は嫌な顔一つせず、話を聞き助言をくださった。
 だから、その小学校の閉校に向けて、
 音楽は箏を中心とした「和」
 国語も総合と合わせて、「和」
 家庭科も、英語も…。
大きなプロジェクトに取り組めた。
 地域の「秋・紅葉祭り」に自分たちで作った和菓子(学校の栗で作った羊羹)でお茶を点てて、東京からのお客様にお出しする。
 野点茶屋を出店した。
 クラス全員(男子6人女子1人)が和装である。
 お茶を立てる子。
 呼び込みをする子。
 お琴を弾く子。
 楽しい最高の企画だったと思っている。
 学習とは、学びたいから習うのであって、
「やりたい事が有れば、黙っていても学習する。」無理矢理教えるものではない事が実感できた企画だった。
 それを後押してくれたのが、潤子先生・首藤先生と厚洋さんだった。
 当日は、遠くから出店場所まで来てくださり、いつもの優しい眼差しで、子どもたちを見守り、一人一人、褒めてくださった。
 東日本大震災もあり、転勤も重なり、真愛のお稽古は途絶えた。
 だが、先生のコンサートには出かけていった。
 帰って来ては、厚洋さんに「三弦」の素晴らしさを話した。
 お三味線を弾いた母と話が合い、
「ギターが弾けるから、俺も三味線弾けるか 
 な?お前が習って来て教えろよ。」
と言ったので三味線も買ったのに「都々逸」も弾かないで、厚洋さんは、逝ってしまった。
 
 彼の告別式は、誰にも知らせず、一部の教え子と近しい人だけで行ったのに、潤子先生が来てくださったのだ。
 先生は、真愛に向かって、
「頑張れ!」
って、黙礼と合図をしてくださった。
 その後、真愛が潤子先生に泣きついたのはいうまでもない。
 お琴の先生ではなく、「人生の師」となった。厚洋さんと連名のお祝いを出す事を許してくださり、真愛の精神の安定を保ってくださったのだ。

 その後も、厚洋さんと一緒に「夜桜」を見に行っていたのは、先生の家の近くの桜だったことを思い出し、泣きつきに行ったり、台風で被災した時に相談したり、様々にお世話になっていた。
 
 ところが、昨年・春。
  西行のように、突然に
  潤子先生の旦那様が
      あちらに逝ってしまわれた。

“その時の話は、このnote 願わくば…。”
https://note.com/am4234/n/n6ced4b268b77 に記してある。”
      (コピぺで検索してください。)
 
 それを乗り越えての今日の会である。

 どの演目も素晴らしかった。
 写真撮影禁止なのだが、「御免なさい。」最後の演奏の時に一枚だけ撮らせてもらった。

 まさに、「春」の演目だった。
 六段の調べ
 厚洋さんが隣にいて、「ちゃんと高みに登れるね。お前のは階段踏み外してたからな、」って言った気がした。
 さくら変奏曲
 レコードで聞いた事があるが、あんなに一箏が、凄いとは思わなかった。
「鬼気迫る」と言ったら失礼なのかもしれないが、散り行く桜の中に一人立ち尽くした感じがした。
 軒の雫
 三弦。
 つくづくと 春の眺めのさびしきは
     しのぶにつたう 軒のたまみづ
 涙のようにコロリン コロリン コロコロリ
弾き終わってから、先生は微笑んだが真愛は、ぽろぽろ涙が止まらなかった。
 八重衣
 シテが三弦で、ワキが箏だと思うが、先生が艶っぽかった。以前聞いた「初音」の時もそう思ったのだが、和楽器の素晴らしさなのかもしれない。いや、先生の奏でる音がそう見せるのかもしれない。
 百人一首の中から、君がため…雪は降りつつ
から、持統帝の天香山。天智帝の露にぬれつつへ。2人の親子関係に想いを馳せてのは、曲解だったかもしれないが、三弦と箏の掛け合いは、相聞歌のように聞こえた。
 息を呑む演奏技法。
 きりぎりす…衣かたしきひとりかもねむ〜
 愛しい人のいない冬の嗚咽すら聞こえて来そうだった。
 地球からのメッセージ
 即興で大太鼓と合わせるのだが、おどろおどろしい「恨み」ではなく、爽やかな
「みんな、全てのものを大切にしようよ。」
って言われているような感じだった。

 潤子先生のコンサートを支えたのは、ずっとずっと旦那様だったと思う。
 先生にやりたいことをやらせて、自由に生きることを許してくれた旦那様と共にあったからこその「今」だと思う。
 真愛は、帰りに厚洋さんのお墓参りに行った。

 寒中の春
「潤子先生も真愛も旦那様に感謝してます。」
 また、明日から寒さが戻って来そうな冷たい風が吹き始めた。
 寒中の春は、「旦那様からのプレゼント」だったのだ。

 お師匠さんから電話があった。
 長い長い感謝の想いと「お弾き染め」に込められた切ない話だった。
 その話は、次回、コロナが落ち着いてから、お師匠さんとお会いしてからという事で…。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります